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日本の近代化の歩みがそうであるように、インドネシアにおいても国民意識の形成という観点から大きな役割を果たしているのが、学校教育である。世銀調査に基づく国際開発センター薮田みちる氏の作成統計によれば、インドネシアの小学校純就学率は1970年72%から2005年93.2%まで、高校純就学率は1970年17%から2005年41.7%まで向上している。
質の問題があるのは専門家の指摘するところだが、それでも潮が満ちてくるように徐々に教育効果はあらわれている。たとえばユネスコ統計研究所2008年推計によれば、この国の識字率が1970年56.1%であったのが、2006年には91%まで上がっている。これは、学校教育の影響力を傍証するものといえよう。
では現在の学校教育において、日本軍政はどう教えられているか。前田精海軍武官がインドネシア独立を助けたことは多くの高校教科書で取り上げられ、それゆえに前田はこの国で尊敬されている日本人であることを前回通信で紹介したが、数百名の残留日本兵がインドネシア独立戦争に加わったことに関する記載は、手元にある二、三の高校教科書からは見つけられなかった。
これら高校歴史教科書の記述において、
「日本がオランダを駆逐し、軍政支配したことにより、インドネシアは独立できた。それがゆえにインドネシアは日本に感謝している」
という基本認識があるかと問えば、答えは否である。他方、
「日本軍政はインドネシアに何一つ恩恵をもたらさなかった、100%否定されるべきものである」
という認識によって記述されているかと問えば、これまた答えは否だ。
多くの教科書は、現代日本人が知らない史実を政治、経済、文化社会と多面的に列挙し、検討を加えている。「親日」もしくは「反日」と、簡単にラベルを張れるような直情的な記述ではないのである。
例えば2010年に発行されたブミ・アクサラ社版「高校2年生用歴史(Sejarah SMA/MA)」では、21頁をさいて第5章「日本による支配時代とインドネシア独立準備に向けた営為」が設けられている。この章の半ばに、インドネシアにおける日本軍政支配の功罪が論じられている。
まずブミ・アクサラ社版教科書は、日本軍政がもたらした否定的側面を列挙しており、これをまとめると以下のようになる。
日本がインドネシア占領をめざした第一の目的は、「大東亜戦争」に勝利するために、石油をはじめとする豊富な天然資源の確保であった。それゆえにタラカン、バリクパパン、パレンバンといった資源産地が真っ先に占領され、そこから産出される資源は軍事優先となったため、国内住民向けの石油配給は次第に制限が加えられていった。
また、インドネシアの農民は、収穫米の30%を日本軍政府に供出するよう強要され、最大時には50%の供出が求められたこともあった。小作人たちは重労働にもかかわらず20%の取り分しかなく、村落部における飢餓状態は深刻化し、栄養の不足による疾病も蔓延し、幾つかの地方において死亡率が上昇した。
さらに労務者(「ロームシャ」はインドネシア語になっている)の供出を求められたことにより、村落の社会構造が変化した。若い労働力が消え、女、子ども、老人、病人だけが取り残された。
つまり日本の支配は、インドネシア民衆にとって、欠乏と重労働を強いられた苛政であったということになる。
にもかかわらず、そうした耐乏を強いる日本軍政にも肯定的な側面があったと、ブミ・アクサラ社版教科書は続けて論じている。
まず、軍事知識を身につけた青年組織を生みだしたことである。日本敗戦後のインドネシア独立戦争時において、日本軍の軍事教練を受けたこれら青年たちが、インドネシア国軍の指導者になってオランダや連合軍との闘争を戦い抜いた。
また文化面では、日本軍政府はオランダ語使用を禁じ、代わってインドネシア語を奨励する政策を採用した。これにより政府の公用語、学校での教育言語としてインドネシア語が用いられるようになり、その普及の道を開いた。とりわけ、1943年10月に日本軍政府が設立した「インドネシア語整備委員会」は、語彙、文法の編纂を担い、近代インドネシア語の確立に歴史的役割を果たしたのである。
ブミ・アクサラ社版教科書では、日本軍政に関する肯定的な記述の分量は、否定的記述の半分程度にすぎない。要するに
「日本軍政は総じて言えば、インドネシア民衆にとって苛政であったが、中には独立につながる肯定的側面もある」
というのが、この教科書の基本認識といえよう。そしてこの認識は、3年の駐在期間につきあってきた各界各層との多様な交流に基づく私の直感からいえば、ほぼ平均的なインドネシア国民の日本軍政像と思われる。
(写真:独立宣言文起草記念博物館に掲げられた、日本軍政期に結成された青年組織を説明するパネル。)