NPO法人 アジア情報フォーラム

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国際問題コラム「世界の鼓動」

「反日」の嵐が吹いた日があった

先人が遺してくれた言葉

 国際交流基金ジャカルタ日本文化センターの前身、同基金ジャカルタ事務所の開設は、マラリ事件の翌月1974年2月である。初代ジャカルタ駐在員事務所長として小宮山猛氏が赴任した。

 私事ながら、小宮山さんは25年前、私のジャカルタでの上司だった(彼は1980年代後半、ジャカルタ日本文化センター所長として二度目のジャカルタ駐在をしていた)。今では故人となってしまったが、組織の枠におさまりきらない自由人で、人間味あふれる熱血漢だった小宮山さんは、アジアとの文化交流のプロはいかにあるべきか、という大事な教えを自らの行動で示してくれた。以下は、1979年に小宮山さんが国際交流基金職員有志の「アジア研究会」に残した手記の一節であるが、「東南アジアを見下すな」「双方向交流を重視せよ」という姿勢が明確にうち出されていて、原点に立ち返る気がする。

我国に於けるインドネシア研究も、従来は西洋の学者が書いたものを翻訳して学んで来たものであり、現地の言葉を用いて研究する様になったのは最近である。インドネシア語学科を設けている大学も数える程しかない。一体日本人の中にインドネシアという国を正確に認識している人がどれ程いるであろうか。(略)

任期が終了して帰国してみると、「今度はロンドンかパリにでも行かせてもらった方がいいですよ」としたり顔で忠告してくれる者がいることは、我国のインドネシアに対する認識が如何にお粗末であるかを示している。(略)

我国が今後インドネシアとの交流を深めるためには、まず我国自身がインドネシアに対する認識を深める事が先決である。交流をする相手国を知らずして、我国の文化を一方的に紹介してみたところで、相手国の非難を受けるだけである。

(国際交流基金・アジア研究会『アジア研究』第1号、1979年)

 インドネシア社会科学院の歴史研究者アスヴィ・ワルマン・アダム氏が「コンパス」紙(1/18)上の「マラリ事件40周年回想」と題する寄稿において、前述倉沢教授の研究を参照しつつ、日本とインドネシア、マラリ事件からそれぞれ何を学んだか、という点について述べていた。「スハルト政権は権力集中を強化するために事件を利用したが、日本はこの事件を教訓に、官民あげて文化交流を強化し、インドネシア研究を盛んに行い、インドネシア文化、国民感情に配慮するようになった。より賢明な政策転換を行ったのは日本である」。

 このようなインドネシアからの声に接して、胸を張るのではなく、改めて日本も襟を正すべきであろう。「テンポ」「コンパス」等インドネシアの代表的メディアが、マラリ事件40周年に関連する記事を掲載したが、私の知る限りでは日本では話題にならなかった。

 いま、気がかりなことがある。現在のインドネシア対日感情の良さが、日本人のあいだで単純化、拡大解釈され始めているような気がするのだ。「(中国、韓国と違って)根っからインドネシア人は日本ひいき」といった言説が近頃よく聞かれる。危うい認識だ。

 ジャカルタで暮らす者であっても、世代交代が進むなか、かつてこの国に厳しい対日感情が拡がっていた記憶、そうした感情が存在することを前提に自らの暮らし方を律していかねばならないという自戒の念が希薄化している。

 マラリ事件をふりかえることは、先人たちがインドネシア、東南アジア社会との関係作りを真剣に模索した、その営為を学ぶことに他ならない。

 最近、インドネシア在住邦人数が戦後最高1万6千人を超えた。日本とインドネシアの結びつきが急速に強まっている。中国や韓国との関係が冷え込んでいるなかで、インドネシアは大の親日国として注目を集めているのだ。日本が改めて東南アジアとの結びつきを強める今こそ、原点に立ち返って、自らのあり様を問う作業を怠ってはならないのである。

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2014年1月26日 up date

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