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賛助会員 小川 忠
(筆者は国際交流基金のジャカルタ事務所長として独自に情報発信をしている)
インドネシアの10月は、言語と国のあり様について議論が活発に交わされる月だ。なぜそうなのかといえば、20世紀に誕生した新しい国民国家インドネシアの形成と、その国語たるインドネシア語の制定に深く関わる歴史的な会合が、85年前のこの月に開催されたからである。
本題に入る前にインドネシア語の基礎知識。北米大陸に匹敵する東西5千キロの世界最大の列島国家インドネシアでは「200とも400とも推定される地域的な言語が話されて」いる(『インドネシアの事典』)。そのなかで、憲法に定められた唯一の「国語」として多様な民族を結びつけているのがインドネシア語である。この言語は、マレー半島やスマトラ島を行き来する人々の間での交易語だったムラユ語(マレー語の一呼称)を土台に、人為的に創出された歴史をもつ。
オランダの植民地であった1928年10月、外国支配からの独立をめざす志に燃えた青年たちが、列島各地からジャカルタ(当時バタビアと称された)の学生寮に集まり、樹立をめざす新生国家のあり様について2日間にわたって熱い議論を交わした。建国史に名を残す第2回「青年会議」である。その結果、10月28日に「一つの国家、一つの民族、一つの言語(インドネシア語)」をうたう「青年の誓い」が議決された。「インドネシア国民」とは何者か、がこの会議によって規定されたのである。
議決の興奮が冷めやらぬその時、明治期作曲家の滝廉太郎に似た、芸術家の繊細さを細面にただよわせるメガネの青年スプラットマンが小さな台に立ち、後に国歌となる「インドネシア・ラヤ」の原曲を愛用のバイオリンで奏で始めた。その時点ではまだこの世に実体がない「想像の国家」インドネシアが胎動を始めた瞬間である。(写真:「青年の誓い博物館」)
第2回青年会議が開催された学生寮は、55年後の1983年に建国精神を記憶するための博物館に生まれ変わった。ふだんはひっそりしているが、10月28日前後は歴史を学ぶ若者たちで賑わう。博物館の展示を見ながら、言語や音楽が、国の誕生にいかなる役割を果たしたかを実感するのである。