NPO法人 アジア情報フォーラム

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国際問題コラム「世界の鼓動」

インドネシア語、世界へ(?)

インドネシア語を国際語へ

 今年インドネシア教育文化省が、「青年の誓い」記念日にあわせて10月28日から31日まで第10回「インドネシア語会議」を開催した。20年前に書いた拙著『インドネシア 多民族国家の模索』(岩波新書)において、インドネシア語の歩みを振り返る一つの材料として1938年独立前の第1回会議から1988年の第5回会議までを取り上げたが、その後も5年おきに開催され、今年が10回目にあたる。今年の議題を見ると、あらためてこの20年間のインドネシア国家の変容と、それにおけるインドネシア語の位相の変化を実感する。

 第1回会議(1938年)は、スラバヤの若い新聞記者、ラデン・マス・スダルジョ・チョクロシスウォの提唱、つまり国家ではなく民間主導によって、ソロで開催された。「インドネシア語は複雑な近代国家の要求を満たす国語たりうるのか」という懐疑を振り払うため、「近代科学技術を摂取するために外来語を取り入れることも厭わず」「インドネシア語の整備のために新しい文法整備が必要」「インドネシア語が公用語、法律語になるよう努力、支援が必要」等が決議された。1928年「青年の誓い」から1945年独立までの狭間の時代、インドネシア語は真に「国語」となるのか否か、先行きは不透明であった。

 第5回会議は1988年、スハルト政権の全盛時代であった。この会議のテーマは「国家建設のコンテクストにおける統一言語としてのインドネシア語を掲げて」である。この時代にはインドネシア語は、国語としての位置づけを行政的には揺るぎないものにしていた。当時、スハルト政権は、独立を求める(その後独立することになる)東ティモールにおいて国家統合の道具としてインドネシア語教育を推進した。スハルト大統領自らが、国家開発を推進するためには正確で秩序だったインドネシア語を定着させねばならないとして、国民にインドネシア語への忠誠と規律を求めていたのが、印象に残る。

しかし大統領の号令が拠って立つ根拠自体が脆弱だった。「正確で秩序だったインドネシア語」は盤石だったであろうか。その半世紀前には、近代言語としては未整備であるとして、独立運動の担い手たちは文法や表記法という言語の秩序確立に取り組まなければならなかったほどである。第5回会議が開催された1988年に初めてインドネシア語大辞典が出版されたということからしても、まだまだ近代国家の国語としてのインドネシア語は発育段階にあり、言語政策においてエネルギーを海外普及に向ける余力は、同じ起源の言語をもつ隣国マレーシアとの協議を除けば、80年代のインドネシア国家にはほとんど存在していなかった。

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2013年11月25日 up date

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