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国際問題コラム「世界の鼓動」

ジャカルタ連続爆弾テロをめぐって

テロリストたちの横顔

当地のメディア等を参考に今回のテロ事件の首謀者及び犯行グループ4人の横顔をみてみよう。まず首謀者とみられるバフルン・ナイム容疑者から。

「ジャカルタ・ポスト」紙(1/18)によれば、彼は1983年9月6日、中部ジャワのバティックで有名な町プカロンガンで生まれる。名門国立大学スベラス・マレット大学で数学と自然科学を専攻する。コンピューター技術への関心が深く、コンピューター研究学生会の会長をつとめた。当時を知る友人たちは、「彼がテロリストになるとは!」と驚きを隠せない。彼は大学キャンパスでは必ずしも敬虔なイスラム教徒ではなかったという。

卒業後は、ソロでインターネットカフェを経営していたが、2008年から2010年までのあいだ、バフルンは過激思想家アマン・アブドゥルラフマンが主宰したバンドンの礼拝グループに参加し、そこで思想的影響を受けたとみられる。

冒頭述べた通り、バフルンは2010年11月に銃器の不法所持で逮捕された。2012年6月出所後、2014年にISへの忠誠を誓い5月にシリアに渡った(2015年説もあり)。その後、インドネシアで計画され、失敗した様々なテロに、バフルンが関与していると、当局は見ている。彼は専門知識のあるソーシャルメディアを活用して、インドネシア国内に作られた細胞組織に指示を与え、活動資金を提供していた。

昨年11月にロイター通信が、ソーシャルメディアを通じて、彼との接触を試みることに成功している。そのなかでバフルンは、「インドネシアで行動を起こす時だ。今はただ引き金をひくタイミングを待っている状態」と述べたという。

貧困や差別がテロの温床という言説を、欧州のISがらみのテロ事件ではよく聞くが、バフルンの略歴や彼の写真を見る限り、貧しさへの怒りが彼をテロに追いやったという印象はない。経済的に力をつけている新興国インドネシアを支えている中間層の、真面目そうなインテリ青年という感じである。

つけ加えると、日本のオウム真理教事件を含め過去のテロ事例でも見られた、合理的、科学的思考が身についていると目される科学者、医師などの理工系エリートの卵が非合理きわまる狂信的テロに関与したという逆説が、このバフルンのケースにもあてはまる。

実行犯グループ4人、すなわちスターバックで自爆したアフマド・ムハザン容疑者、警官詰め所で爆死したディアン・ジュニ・クルニアティ容疑者、警官隊と銃撃戦の後爆死したアフィフ容疑者、ムハンマド・アリ容疑者は、いずれも20代~30代の青年たちである。当局は4人が前述のアマン・アブドゥルラフマンが関与した、2010年アチェ州での過激組織の軍事訓練に参加していたものとみている。

共同通信電によれば、ムハンマド・アリが住んでいたのはジャカルタ近郊の下位中間層や貧困層が住む地域。熱心なイスラム教徒であった彼は、高校卒業後、バス運転手となった。結婚を機に、社交的な性格が一変、近所づきあいを嫌うようになる。2010年に過激組織の資金を作るために銀行強盗を計画して逮捕された。

タムリン通りで銃をかまえる映像が世界中に流れたアフィフは、2010年のアチェ軍事訓練に参加して当局に逮捕され、東ジャワ州のチピナン刑務所で2011年から15年まで服役した。そこで、同じ刑務所に収監されていたアマン・アブドゥルラフマンの感化を受け、彼の弟子的存在となったのである。チピナン刑務所が用意した「脱過激化」プログラムを拒否したにもかかわらず(法的強制力はない)、服役態度が模範囚であったため刑期が早まり、2015年早々に彼は出所していた。

2か月前に本通信45でインドネシアの脱過激化プログラムの問題点として、刑務所の人員不足、ずさんな管理のせいで、「収監中のイスラム過激思想イデオローグがソーシャルメディア等を通じて扇動的なメッセージを刑務所外つまり世界に発し、IS支持者を拡大させているという現実」について触れた。その懸念が現実のものとなってしまった。

今インドネシアでは、反テロ法の改正、刑務所の管理体制見直し、脱過激化プログラムのあり方について議論が行われている。

犯行現場の警察詰め所 ところで、かつて2000年代にインドネシアで大規模テロを惹きおこしたジェマ・イスラミアのメンバーは、アフガニスタンで実戦経験のある「プロ」のテロリストたちだった。しかし今回の犯行グループ4人はシリア・イラクへの渡航経験はなく、戦場で戦った経験もない。バリ島やパリでのテロ事件と比べると、爆弾は小規模で建物を全壊させるほどの威力はなく、破壊の及んだ範囲は想像したよりもずっと限られていた。犯行現場の警察詰め所は既に修復を終え再開している(写真:犯行現場の警察詰め所。1/28撮影)。装備していた武器の戦闘能力は低く、警官への敵意も中途半端なものだった。爆弾の操作を誤って爆死した結末からも、テロリストとしては素人という印象を与える。

 

テンポ誌 1月18日~24日

アマチュアっぽいテロリストたちの当日の行動から、浮かびあがってくるのは、自分たちがここに存在していることを社会に示したい、という悲しい衝動だ。

組織の捨石となった彼らの行動からは、首謀者バフルン・ナイムからは感じられない貧困への怒り、社会への閉塞感とでもいうべき鬱屈した感情が漂っている。交差点の警官詰め所を取り巻く野次馬の後ろで、銃を構えて、ウロウロする彼らの所在なさは、他者との対話を拒絶し、孤立する「群衆の中の孤独」を象徴するかのようだった。(写真:「テンポ」誌1/18-24 表紙)

 

 

影響力を強めた過激思想家アマン・アブドゥラフマン

今回の事件で過激思想イデオローグとして存在感が際立ったのが、現在ヌサカンバンガン島刑務所に収監中のアマン・アブドゥラフマンである。首謀者バフルン・ナイムと犯行グループをつなぐキーパーソンが彼だ。インドネシアの過激思想家としてはアルカイーダ系過激組織ジェマ・イスラミア指導者アブ・バカル・バアシルが知られるが、テロリスト世代交代が進み、アルカイーダ系組織の弱体化、ISシンパの増大という現象がみられるなかで、ISとつながるアマンの影響力は、最近ではバアシル以上であるとみられる。

「ジャカルタ・ポスト」紙(1/25付け)によれば、アマンは1972年1月西ジャワ州スメダンで生まれ、イスラム寄宿舎に学び、ジャカルタのインドネシア・イスラム・アラブ単科大学(LIPIA)で学士号を取得した。卒業後は同大学他で講師をつとめていたが、2000年早々に危険思想を教えたとして解雇された。2004年にテロを計画したとして逮捕され、2005年から06年にかけて同じ刑務所に収監されていたバアシルと知りあい、彼らは共同歩調をとることになる。2008年に刑期が早まり出所したアマンは、すぐにバアシルとともに、アチェでの軍事訓練キャンプ設立に出資し、数々の国内過激グループを糾合することに成功している。

しかし2010年2月に同キャンプを治安当局が急襲し彼らの企ては失敗(大形利之「インドネシアのテロリズム ―イスラーム過激派からテロリストへの変節に関する考察―」東海大学国際文化学部紀要第5号2012年参照)、逮捕されたアマンは、中部ジャワのヌサカンバンガン島刑務所で服役中の身だ。

服役中にもかかわらず、彼はインドネシア国内の過激分子に大きな影響を与えた。2014年に(ISと対立関係にあるアルカイーダと関係が深いはずの)バアシルがISへ忠誠を誓ったのも、アマンの働きかけがあったからと言われている。さらに、中部スラウェシのテロ組織「東インドネシア・ムジャヒディン」指導者サントソや、シリアでISインドネシア部隊を指揮する前述のバールム・シャーとアブ・ジャンダル、そして今回のテロ首謀者バフルン・ナイム、と主だったインドネシア過激組織リーダーのいずれもがアマンの影響を受けている。

アマンの過激な主張の中核にあるのは、「タクフィール」という概念(takfir、不信心者とみなすこと)である。イスラム教徒であっても、イスラムの道を外れ大罪を犯した者は「不信心者(カーフィル)」と宣告し、処刑されねばならないという考え方だ。「不信心者」と判断する要件は何か、それを誰が判断するか等々中東イスラム世界の中でも議論があるが、この概念に基づくと、イスラム教徒が同じイスラム教徒を攻撃することも正当化されてしまうので、かなりの危険思想とみなされる。「タクフィール」を説いたエジプトの「イスラム原理主義思想の父」と呼ばれる思想家サイイド・クトゥブは、思想が危険であるからという理由だけで、テロに直接関与したわけでもないのに、処刑されてしまったほどだ。

国家テロ対策庁(BNPT)元幹部は、ジャカルタ・ポスト紙のインタビューで、「アマンの説くタクフィールが、ISシンパたちの大義となっている。過激分子は、アマンの雄弁、深い宗教知識、流暢なアラビア語に深く傾倒している」と語っている。インドネシアのイスラム教徒のなかに潜在的にある「本家本元」の中東イスラムへのコンプレックスが、アマンの主張が拡がる土壌を形成しているようにも思える。

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2016年1月30日 up date

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