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真にアメリカのソフトパワーの強さを体現しているのは、つまるところ高等教育と大衆文化という二つの強力なエンジンであろう。日本では昨今東南アジアにおける中国の対外文化攻勢や韓流ブームが話題になるが、ジャカルタに4年暮らしてインドネシアの青年たちとつきあっていると、彼らのハートを本当に広く、深くつかんでいるのは、アメリカの文化、知的世界の魅力であると感じる。
現在インドネシアでも、日本同様にスター・ウォーズの新作が公開されていて、映画館に人々が押しかけている。昨年のディズニー映画『アナと雪の女王』もしかり。米国の有名ロック歌手が来イしたらスナヤンの10万人入るスタジアムも、あっという間に大入り満員だ。
広範な層にアメリカを感じさせるのが大衆文化(ポップカルチャー)だとしたら、深く米国の価値観を浸透させているのが米国の高等教育であろう。
2012年のインドネシア人の海外留学先上位5か国をあげると以下の通りである。(OECD及びChina Scholarship Council調べ)
1位 | 中国 |
13,133名 |
2位 | オーストラリア |
9,431名 |
3位 | 米国 |
6,907名 |
4位 | ドイツ |
2,348名 |
5位 | 日本 |
2,213名 |
留学生数だけみれば中国が圧倒しており、米国の倍近い数となっている。またインドネシアに近いオーストラリアも、米国以上に留学生を集めている。しかし、この国で最も優秀な人材が米国大学に留学している事実は独立以来変わらない。この国の開発政策を担った経済テクノクラートたちがカリフォルニア大学バークレー校に学び、彼らは「バークレー・マフィア」と呼ばれたが、それ以外にも米国の大学で学んだエリートたちがインドネシアを動かしているといっていい。現職閣僚でも、北イリノイ大学で博士号を取得したアニス・バスウェダン初等中等教育・文化大臣ほか米国留学組が目白押しである。
しかし米国高等教育機関の凄さを、エリート同士の人脈形成のみで評価するのは、浅い見方だろう。もっと深いところで、米国はインドネシアの心をひき寄せている。そう実感したのが、一人の米国知識人の訃報である。
さる12月12日コーネル大学ベネディクト(ベン)・アンダーソン名誉教授が、訪問中の東ジャワで急死した。著名なインドネシア研究者である同教授は、1983年に刊行された著書『想像の共同体』によって、インドネシア研究の枠を超え、ナショナリズム論の第一人者として世界に知られるようになった。アンダーソン教授急逝の報に接し、世界中の研究者が哀悼の意を表明したが、タイ、バンコック・ポスト紙に掲載されたメディア研究者のフィリップ・カニンガム氏による追悼エッセイが特に印象に残った。
学界のスーパースターであったベン・アンダーソンは、ロックのスーパースター、ジョン・レノンと共通するところが多い、という。両者はけたはずれの想像力をもつ夢想家であり、シャイであり、芸術的であると同時に政治的な存在だった。世間的には成功者でありながら、抑圧された人々への共感を示し、権力・権威に対して反抗的であろうとした。そしてレノンは名曲「イマジン」で「想像してごらん、国なんて存在しない世界を」と歌ったが、一方ベン・アンダーソンは「国家もまた想像の産物」と論じたのは対照的だった。
『想像の共同体』は、国民国家インドネシア形成の歴史をたどりながら、「国民」は教育、メディア、官僚制といった近代的制度を通じて形成されたものであることを明らかにし、今日ではナショナリズム論の古典ともいわれている。
『想像の共同体』が書かれる以前、インドネシアで大量の血が流れた9・30事件及び直後の共産党弾圧の真相に迫った、報告書「コーネル・ペーパー」を彼は執筆し、これがスハルト政権ににらまれ、30年近くインドネシアに入国することを禁じられた。インドネシア政府だけではない。アメリカ政府のベトナム政策に対しても批判の刃を向けた。知的世界のジョン・レノンともいうべきベン・アンダーソンの反骨精神は死の直前まで衰えることはなかった。
急逝2日前の12月10月、彼の最後となる講義がインドネシア大学で行われた。この模様を「コンパス」「ジャカルタ・ポスト」「テンポ」など各メディアが伝えている(写真:12/21付けテンポ誌)。
「ンギィー!」という文字が大きく書かれた黒いTシャツで登壇したナショナリズム論の世界的大家は講義のなかで、赤ん坊があげる声を真似て、「ンギィー!」と叫んでみせたという。そしてそれから学生たちに批判精神を持ち続けることの大切さを訴えた。
お腹をすかせてむずかる赤ん坊のように「ンギィー!」と叫べ。怒ることによって人は何かを表現することができる。そして「自分は何者か」「自分が大切なものか」を知ることができる。アナキズムは、必ずしも否定されるべきものではない。
ジャカルタ・ポスト紙は社説(12/15)で「アンダーソンの不朽の業績は、真実を求め続け妥協しない、学者として一貫した姿勢」であり、そこが「少し業績をあげるとそれに安住する」インドネシアの凡庸学者と違うところと書いた。
慶応大学の渡辺靖教授は近著『沈まぬアメリカ』のなかで、米国では「教養を磨き、批判的思考を養うことは、長期的な最良の投資であるという信念は教育関係者に広く共有されている」と記しているが、ベン・アンダーソン最後の講義は、まさしく批判的思考のススメだった。このような民主主義の根幹をなす普遍的な批判精神を体現する知識人が少なからずいて、次の時代を担う人材を、国籍問わず世界中から集め鍛えているところが、米国の大学の強さなのだ。
トランプ「暴言」は、アメリカの対外信用を大きく損なうものだ。しかしトランプの反知性主義は米国社会の一側面に過ぎず、あの国には健全な復元力があると心のどこかで考えているから、冷静でいられる。これが、現時点でのインドネシア世論の平均的な見方であろう。