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笹川平和財団の堀場明子氏が、マルク紛争とその構造的要因を分析し、平和構築について発表を行っている(「南山大学社会倫理学研究所ウェブサイト」(https://www.ic.nanzan-u.ac.jp/ISE/japanese/database/discourse/2006horiba.html)。
堀場氏の報告によれば、事態は沈静化しても、キリスト教徒とイスラム教徒の間での相互不信は根強く残っており、これを克服し、和解に至るまでの道のりは相当に時間がかかることが予想される。その中で堀場氏が注目するのは、文化的アプローチによる平和構築である。
かつてマルクには、イスラム教徒とキリスト教徒の村をつなぐ「ペラ・ガンドン」という伝統儀式があった。しかし、スハルト政権下の開発政策によって社会変容が進む中、これら伝統的な儀式が衰退したことも一因となって、紛争をコントロールする伝統的なシステムが弱体化してしまった。紛争後、ペラ・ガンドンは復活した。堀場氏は平和構築の観点から意義ある試みとして注目している。
映画『東からの光』で描かれたイスラム教徒とキリスト教徒の子どもたちがサッカーチームを結成して、同じ目標に向かって汗をかき、涙を流すという取り組みは、子どもたちのみならず、大人たち、地域コミュニティーにおいて分断された社会的紐帯を取り戻すという観点から、スポーツ文化による平和構築、という性格を有している。しかも、こうした取り組みが外部や上からの指令ではなく、一個人の発意から始まっていることにも意味があり、内発的な市民社会形成への萌芽を、この映画から読み取ることもできよう。
他方、少し突きはなしてみれば映画『東からの光』から、「市民社会への萌芽」よりも、「インドネシア・ナショナリズムの強化」を感じとる見方もありうる。
オーストラリア国立大学で教鞭をとるインドネシア人研究者アリエル・ヘルヤント教授が、近著『アイデンティティーと娯楽:インドネシア映画文化の政治学Identity and Pleasure: The Politics of Indonesian Screen Culture』(2014)で興味深い指摘を行っている。
ヘルヤント教授は、スハルト軍部独裁政権の崩壊・民主改革の現代と、インドネシア独立直後の50年代の近似性について触れ、民主主義への模索と共に草の根ナショナリズムが高まり、これが映画をはじめとする娯楽産業に少なからぬ影響を及ぼしていると述べている。彼によれば、2000年代以降のインドネシア映画には、愛国心と「いい気持ち(Feel-good)」感覚がブレンドされた作品が目立つようになったという。たしかに、この「いい気持ち!愛国心」は、上述したインドネシア映画の最近の傾向(①イスラム化、②新世代の独立史再評価、③地方の視点からの国民統合)のいずれにも絡んでくる底流のような要素である。
『東からの光』にも「いい気持ち!愛国心」ムードが流れているといえる。映画のクライマックスで、「オレはマルク人だ!」を合言葉に、分裂の危機を乗り越えて全国大会に出場したマルク代表チームが対決するのは、資金力があり、優秀な選手が集まるジャカルタ首都特別区チーム。つまり、この対決は、独立以来インドネシア政治の課題であり続けた中央と地方の格差、ジャワ島とそれ以外の地域の格差を象徴するものである。現在のジョコウィ政権においてもジャワ島以外の発展加速を重視する政策をとっている。ジョコウィ大統領にとって自分の眼前で「東からの光」が2014年度FFI最優秀作品を受賞したことは、「わが意を得たり」の思いだったのではないか。
マルク代表がジャカルタ代表に勝利することは、「多様な民族が団結すること」「地方が中央を制すること」を意味し、国是「多様性の中の統一」が実現されることを意味する。つまり、映画製作者と観客の暗黙の了解のなかに多民族・多宗教国家インドネシア・ナショナリズムの理想形が想起されている。宗派間対立を克服したマルクが団結して、インドネシア国家から分離独立する、というストーリーは想定されていないのである。
実際のインドネシアは、未だ紛争の種は燻っており「多様性の中の統一」実現の道半ばにある。映画は「自惚れ鏡」であるがゆえに、『東からの光』は若干美化されたインドネシア自画像をスクリーンに映し出している。