NPO法人 アジア情報フォーラム

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国際問題コラム「世界の鼓動」

西洋近代の「表現の自由」とイスラムへの眼差し

反イスラム劇の真実は、カソリック教会批判?

ここでグナワンは焦点をナポレオンからゲーテに移すのだが、そのくだりが大変興味深かった。グナワンによれば、ゲーテはヴォルテールに敬意を感じていたが、同時にイスラムに対しても共感を抱いていた。確かにゲーテは青年時代に「マホメットの歌」というイスラム宗祖を賛美する詩を書いているし、コーランを何度も読んだという。反イスラム感情をもたなかったゲーテは、ヴォルテールの『マホメットあるいは狂信』をドイツ語翻訳するにあたって、ヴォルテールがこめた毒素を除去することも試みていた、とグナワンは指摘する。つまり、ヴォルテールと違って、ゲーテはイスラムの教義そのものに暴力性があると考えていなかった、と。イスラムの歴史において登場する暴力は、宗教教義とは別の要因に起因するとし、同時に、(イスラムも含め)宗教のなかに非寛容が胚胎することの危惧を感じ、物理的権力に頼る宗教を拒否する姿勢をゲーテは示したのだという

『マホメットあるいは狂信』の劇中、主人公は「純正な信仰により普遍的な世界帝国を建設するのだ」というセリフを口にする。ヴォルテールがこのセリフにこめたのは、表面的には反イスラム言辞のように見えて、実は欧州において当時絶大な権力を握り啓蒙思想に敵対していたカソリック教会に対する批判だった。であるがゆえにイスラムに対して好感情を持つのに、反イスラム的な戯曲『マホメットあるいは狂信』を、ゲーテはあえてドイツ語に翻訳し、宗教やイデオロギーに狂信する危険性を訴えようとしたのだと、グナワンは考える。つまりゲーテが否定したのは、「自らの信仰、基本価値を絶対視し、自らを疑うことをせず、性急に普遍性を言い立てる思想傾向」ということだ。キリスト教も、イスラム教も、共産主義も、自由主義も同じ誤謬を犯す危険性はある。

「シャルリー・エブド」誌がテロ事件後、再び宗祖の戯画を掲載したことで、同誌に対する反発がインドネシアでも強まった。欧米社会にはイスラムへの偏見が根強く残っている、と不満を述べるインドネシアの識者は多い。

他方、グナワンのエッセイに深みがあるのは、ヴォルテールの反イスラム劇文学についてゲーテの解釈を紹介することで、暴力性、狂信性の芽はすべての宗教にあるという面をあぶりだしてみせたことだ。「シャルリー・エブド」の挑発的ともいえる姿勢に「売り言葉に買い言葉」で感情的対立に陥りがちだが、そこからの脱却をグナワンは模索しているように思える。

ゲーテが『マホメットあるいは狂信』に事寄せてキリスト教会の非寛容を批判したように、グナワンはこのゲーテの思想的営為を紹介することで、インドネシア・イスラム世界内部の非寛容への傾斜にも自制を訴えているのである。

東南アジアのイスラム世界において、西洋近代の教養を深く身につけたグナワンのような知識人たちがこうした冷静かつ建設的な議論を展開していることを知っておくのは、日本のこれからを考える上で意義あるものと思う。

反イスラム感情の蔓延は、欧米だけの話ではない。本稿執筆中に飛びこんできた「イスラム国」日本人人質事件の衝撃から、日本でも同様の拒否反応が出てくることが憂慮される。さらに幕末の宗教性を帯びた尊王攘夷論に似た排外ナショナリズム、意見を異にする者に対して本人や周囲にまで脅迫、中傷を繰り返すハラスメントの横行は、昨今の日本社会は非寛容へ傾斜しているのではないか、と海外在住者の眼には映る。欧米、イスラム圏、日本それぞれにおいて自制と寛容の精神をいかに取り戻すか、自らの歴史・文化・社会のなかで考えていくしかない。

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2015年1月27日 up date

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