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国際問題コラム「世界の鼓動」

インドネシア独立と海軍武官前田精

高校教科書、博物館に描かれた「前田武官像」 

なぜ前田武官が今でもインドネシアの人々から記憶されているのか。この問いについて考えるために、学校教育の現場、歴史博物館、最近の出版物が前田をどのように語っているのか調べてみることにした。

まず学校でどのように教えられているのか。手元にあるのは、ジャカルタ市内の大型書店で購入したエアランガ社版「高校2年生用インドネシア史(Sejarah Indonesia untuk SMA/MA kelas XI)」である。(なおこの国では複数の出版社が独自の高校教科書を出版している。国定カリキュラムに準拠して、民間の個人や出版社が教科書を執筆し、それに国の教育文化省は出版許可を与える形をとっている。参照するエアランガ社教科書も、そうした複数ある歴史教科書の一つで、昨年に定められたカリキュラムに準拠して作成された最新教科書だ。)

この教科書では、第4章「インドネシアにおける日本支配」に47ページをさいている。この分量を聞いただけで、いかに多くの第二次世界大戦に関する知識を、インドネシアの若者たちが学んでいるか察することができるだろう。さらにそれに続く第5章「独立宣言とインドネシア政府樹立」、つまりインドネシアが国家として誕生する、その陣痛から出産に至る極めて重大な歴史局面に関する叙述(283~287頁)において、前田が登場する。以下はその要約。

 〔第4章、戦争末期の1945年8月初旬、寺内寿一南方総軍総司令官がスカルノ、ハッタらに、8月24日をもって日本はインドネシアに独立を付与することを約していた史実に触れた後の箇所で〕

815日、スカルノ〔初代大統領〕、ハッタ〔初代副大統領〕らは日本の連合軍への降伏を確かめるために、〔ジャワ島における軍政を担当していた〕軍政監部の山本茂一郎ジャワ軍政監(陸軍少将)を訪問したが、不在のため会えず、彼らは代わって海軍武官府の前田少将と面会した。前田は、日本降伏の事実を認めるとともに、「インドネシア独立準備委員会」を通じて独立宣言のための諸準備を始める道をスカルノらに開き、青信号を与えたのである。

 〔同じく第4章、即時独立を主張する青年たちによるスカルノ、ハッタ拉致、その後解放等の動きがあった後〕

816日夜、前田に伴われてスカルノ、ハッタは山本軍政監に面会を求めるも、両者と直接話すことを嫌った山本は部下の西村乙嗣軍政監部総務部長(少将)に応対するように命じた。西村が伝えたのは驚くべき知らせだった。「日本は降伏にあたって連合軍に対して、現状維持のまま占領地全域を引き渡すことを約したがゆえに、インドネシアの独立を許可することはできない。」

独立宣言起草ジオラマ西村との折衝を断念したスカルノ、ハッタは急きょ前田海軍武官宅に直行し、そこで独立宣言起草のための会合を開いた。その会合に参加していたのは、スバルジョ〔初代外務大臣〕、スカルニ、ディア、スディロ、サユティ・ムリクである。   写真ジオラマにある通り、丸テーブルで宣言文案が練られた。スカルノ、ハッタ、スバルジョが議論した。スカルノが文案を執筆し、ハッタとスバルジョがそれぞれ意見を述べた。

 (写真:エアランガ社教科書にも掲載されている独立宣言起草ジオラマ。後述の独立宣言文起草記念博物館にて撮影)

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2014年8月18日 up date

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