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このような事柄をつらつら考えながら、「プロ倫」を読み返したところ、自分がヴェーバーの議論を表面的にしか捉えてこなかったことを痛感した。誤読の危険性については、ヴェーバーの大家たる大塚久雄が岩波文庫版の「訳者解説」で、すでに釘を指していたのだが、大塚の解説を参照しながら「プロ倫」を読んでみると、ヴェーバーが描写するところの英国、オランダ、米国における初期資本主義の発達は、実に逆説に満ちていることに驚かされ、それゆえに誤読も招きやすかったのだろうと納得する。
なかでも最大の逆説は、「プロテスタンティズムが合理的だったから、合理的な資本主義が生まれたのではない。宗教改革者ルターやカルヴァンの時代、初期プロテスタントは、カソリックと比べても狂信的といえるほど宗教が世俗を支配する非合理な思想であった。そうした非合理な精神のなかから資本主義が形成された」ことだ。
つまり信仰心があまりに強烈であるがゆえに、「俗世から離れた僧院だけが神意にかなう生活ではない。世俗的な職業生活のなかにこそ神が各人に与えた使命が存在し、勤勉に働くことが神の意思にかなう行為なのだ」という思考が、カルヴァン信者のあいだに生じ、当初金儲けを罪悪視していた彼らが、利潤を追求・蓄財し、隣人愛のために用いることが聖なる使命と考えるようになった。この職業観の逆転現象を、ヴェーバーは指摘しているのである。この職業観の逆転現象というプロセスにおいて、初期資本主義の勃興を担ったカルヴァン主義者たちが無自覚なままに、教義の解釈を行っていたとも言えよう。
そして大塚の解説のなかで最も印象に残った指摘は、ヴェーバーがマルクスを批判したのは唯物史観だけではなく、史的一元論でもあったということだ。プロテスタント倫理は歴史の中の、ある時期、ある地域で、資本主義形成を促進する役割を果たしたが、常にそういう作用を果たしたわけではないという。以下、大塚の明快な解説を引用しておきたい。
ヴェーバーが言おうとしているのは、宗教改革後の一時期に、複雑な歴史の織り成す織物のなかに一つの、しかし大切な横糸か経糸かを禁欲的プロテスタントがつけ加えた、そういうことだけなのであって、宗教改革ないしは禁欲的プロテスタンティズムが資本主義文化を作り出した、などいったことでは絶対になかったのです。
であるならば「イスラムは停滞の宗教である」という断定も正しくなく、ある特定の社会状況のなかで、その状況に見合った対応(解釈による教義の操作)が行われるなら、経済発展に貢献する要因にもなりうると考えるべきなのだ。今日のインドネシアで起きているイスラム金融の拡大は、そういうことのようにも見えるのである。