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国際問題コラム「世界の鼓動」

イスラムの倫理と資本主義の精神

資本主義の危機と宗教をめぐる論争

「ジャカルタ・ポスト」紙(本年1月30日付け)に「宗教と資本主義」と題するパンチャシラ大学経済学部サトリオ・ワホノ講師の寄稿が掲載された。要約は以下の通りだ。

近年の経済危機はますます危機的な様相を深めており、インドネシアも極端なルピア安に苦しめられている。「資本主義は不道徳なイデオロギー」と考える人が増えており、資本主義の終焉を願う声まである。

しかし資本主義とは、世界宗教の倫理を吸収したイデオロギーであり、少なくともプロテスタント、ユダヤ教、儒教、イスラム教は、資本主義に向かって倫理的エネルギーを提供し続けてきた。

ヴェーバーが明らかにした通り、プロテスタント倫理が合理的な近代経済体制、すなわち資本主義を誕生させた。合理性を尊ぶプロテスタント倫理が欧米諸国に簿記や株式会社等の自由経済体制をもたらした。プロテスタントでは、個人の世間的成功は(富裕になることも含めて)、神の意志の現世における顕示であると信じられた。

儒教に関しては、ヴェーバーは資本主義形成の障害になる要因とみなしたが、その後の世界はヴェーバーの分析とは違った方向に進んだ。たとえば今日の中国は、社会主義政治体制に資本主義経済を導入するという独自の政策を採用しているが、この中で儒教は「家族(=集団)の利益を個人の要求に優先させるべき」という秩序観を提供し、家父長的権威に基づく国家の経済統治を補強する役割を果たしている。

イスラム教については長く資本主義を停滞させる宗教と考えられてきたが、本来資本主義と相性のいい宗教である。イスラムは理性を強調し、私的財産の所有、自由経済、利潤追求、貨幣経済、競争、商談における合理性といった資本主義精神と調和する。

つまり今日の資本主義の危機は、当初資本主義が内包していた宗教倫理が希薄化し、少数エリートの野放図な利潤を追求する資本主義へと逸脱してしまったから起きているのであり、危機を解決するために必要なことは、市民の福祉を追求する宗教的価値を奉じた初期資本主義の精神を取り戻すことである。

以上に見るような、経済における宗教が果たす役割を重視するワホノ講師の主張が開陳された一週間後、正反対の立場からの投稿「宗教と無縁な資本主義」が「ジャカルタ・ポスト」紙(2/7付け)に掲載された。投稿者は、経営コンサルタント会社に勤める読者エルウィン・ウイラワン氏で、彼の論点は以下の通りだ。

資本主義の成功を宗教と結びつけるワホノ講師の議論に、三点コメントしたい。

第一に資本主義の発展は、宗教精神とは無関係である。資本主義の芽は、プロテスタントの登場以前、イタリアでの〔ルネッサンス期の〕商業活動に起源をたどることができる。

第二に、資本主義の勃興と宗教を結びつけるのは誇張しすぎの議論である。プロテスタントが資本主義を生みだすというなら、なぜプロテスタントが過半数であるパプア・ニューギニアが依然として貧困国なのか。

イスラムも資本主義の足かせとなっていると言えよう。イスラム法による遺産相続は、資本の蓄積を抑止する側面があるといわれている。中国の経済発展も儒教とは無縁で、改革開放を進めた鄧小平のプラグマティズムに負うところが大きい。

第三に資本主義に経済危機はつきものである。

つきつめると資本主義は宗教とは関係なく、現世、世俗的な要因から浮沈を繰り返して来たのであり、度重なる経済危機に見舞われつつ、これを創造的に対応することで、弱点を克服してきたというべきだ。

両者の議論を聞いていて、宗教と経済発展の関係性に関する古くて新しい議論を思い出した。日本に続いて韓国、台湾、香港等が経済発展を遂げた結果、「儒教は資本主義の障害」というヴェーバーの論に見直しを迫る「儒教が東アジアの資本主義発達に貢献した」という説が、20世紀終盤には提唱された。そして、その頃は依然として社会停滞の元凶的な見方が強かったイスラムに対しても、彼らが多数派を占めるマレーシアやインドネシアの、その後の経済成長ゆえ、こうした見方に修正を迫る声が、今日高まってきている。

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2014年2月23日 up date

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