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世代交代が進んだ現在では、日本だけでなくインドネシアの青年も、かつて1970年代には厳しい反日感情、対日警戒論が東南アジアに存在していたことを知らない人が多い。日本語の壁で囲われた、内向きネット世界では、「日本が独立を助けたので、インドネシア国民は日本に感謝しており、建国以来インドネシアは親日である」という、一世代前のインドネシア国民が聞いたら苦笑いするに違いない、単純化された歴史認識が流れている。しかし、私がインドネシアに初めて暮らし始めた80年代終わり頃でも、反日の余韻は確実に残っていた。
「福田ドクトリン」が打ち出された背景には、このような東南アジアの反日感情をどう克服していくかという外交課題の存在があった。1974年1月、田中角栄首相が東南アジアを訪問した時に発生した激しい反日暴動が、外交当局者に、政治・経済のみに依拠した二か国関係の脆弱性に目を向けさせ、「福田ドクトリン」誕生の契機となったのだ。
1980年代までインドネシアに残っていた反日感情は主に、①日本軍政時代の負の記憶、②進出した日本企業や邦人のインドネシア文化・価値への無理解と傲慢な態度に起因していた。
①について思い出すのが、今から20年以上前、最初のインドネシア駐在時代のことである。1992年3月9日は、オランダ植民地政府が日本軍に降伏した日から半世紀にあたる日だった。インドネシア社会科学院が、日本軍政を、インドネシア史においていかに位置づけるべきか、日、米、豪、欧、東南アジアの研究者を集めた学術会議を開いた。
日本軍政時にジャーナリストとしての一歩を踏み出したベテラン記者、ロシハン・アンワール氏が、初日討論の冒頭で語ったのが、当時の日本人から投げつけられた日本語「お前たち、原住民は皆、バッギャロー(馬鹿野郎)だ!」だった。「バカヤロー!」いう日本語は、本当に様々な場面で多用されたようで、インドネシア語の父と呼ばれる大知識人タクディル・アリシャバナ氏、作家のウマル・カヤム氏も、若き日に受けた屈辱の思いを語っている。
②について言うと、「福田ドクトリン」発表の前年1976年3月に国際交流基金が開催した「東南アジア諸国と日本との文化交流に関する国際シンポジウム」で、東南アジア有識者が「日本企業が東南アジア諸国とその人民を搾取しているとか、現地の民衆の願望に何らの同情も持ち合わせていないとか言う主張や反感」が反日の原点にあり、「相手国の非ビジネス、非政治エリートと、もっと文化的な相互関係をもつ必要がある」と繰り返し主張したことが記録されている。
こうした過去の記録を見るたびに思うのが、今日のインドネシアの良好な対日感情は、障害を乗り越えて、種を蒔き、肥料を与えて育んできた先人の営為の賜物であるということだ。現代を生きる我々がこれにあぐらをかいて、未来に向かって育てていく姿勢を怠れば、豊かな森も枯れてしまう可能性があるということでもある。目先にとらわれることなく、次の世代のための種を蒔き続ける愚直さを放棄してはならない。