講演依頼、コラム執筆、国際交流企画など、ご相談は無料です
ここで東大の保城広至氏が、興味深い問題提起をしている。福田ドクトリンの「心と心の触れあい」というフレーズは、福田の独創とこれまで一般的に考えられてきたが、同氏は、この見解に疑問を投げかけている。読売新聞記事(1963/9/27)によれば、1963年の池田勇人首相とスカルノ大統領の会談において、スカルノが池田に「心と心の話し合い」を求めたというのである。(http://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/asj/html/041.html)
「心と心の触れあい」は、外交玄人筋には「外交にそぐわない甘っちょろい言葉」という声も当時あったようだが、民衆の心をつかみ鼓舞することに天才的な手腕を発揮した政治家スカルノが似た言い回しを口にしたのであるならば、インドネシアの民衆に受け入れられる素地をもっていたのだろう。「心と心の触れあい」は、日本の首相が東南アジアの民衆に直接アピールする力をもった、パブリック・ディプロマシーのキーワードとなった。
第二の歴史的意義は、文化を通じて日本がアセアンの地域統合に貢献するという、今日においても先進的といえるざん新な文化交流政策が語られていたことである。「福田ドクトリン」の発表にあわせて、日本政府は50億円のASEAN文化基金を拠出し、ASEAN自身による東南アジア研究、公演、展示等の交流への活動支援を表明している。
ここで登場するもう一つの重要なキーワードが、「対等な協力者」(イコール・パートナー)であろう。これは戦中の日本が、「日本を盟主とする大東亜共栄圏」構想を打ち出し、大東亜共栄圏家族において弟たる東南アジアは、長兄たる日本の指導に従わなければならないとして、東南アジアの知識人たちの自尊心を深く傷つけたことに対する反省から産み出された表現と考えたい。「福田ドクトリン」にはこの箇所以外にも、あえて核武装を拒否し、非軍事大国の道を歩むことの表明など、歴史に学んだ戦後日本外交のかたちが語られている。
第三に福田ドクトリンが歴史の試練に耐えて評価を受けるのは、その後の36年において日本外交が理念だけに終わらせず、これを現実に近づけるために、他国の外交にあまり例がない模索を試みたからである。
前述のASEAN文化基金創設がその一例であり、国際交流基金が1989年に創設したアセアン文化センター、95年に創設したアジアセンターは、東南アジア、アジアの「心」に日本国民が触れあう機会を作るため、日本とアジアの市民が「対等の協力者」として共通課題について対話し、協働することを加速させるために設けられた。すなわち「福田ドクトリン」の精神の延長線上にある政策だった。
両センターの創設に多少なりとも関わった者として、その現場には今までにないものを創るのだという挑戦者魂があふれていたと記憶する。器の大きい理念は、多くの人々に夢を描く場を与えてくれるのだ。