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確かにこの30年間における国際交流基金の対東南アジア交流事業をふりかえってみると、ラム氏が挙げる東南アジアの対日イメージの顕著な改善を実感するし、キティ氏が指摘する通り「福田ドクトリン」が照らす方向に向かって日本は模索を重ねてきた、ともいえる。
通常、「福田ドクトリン」については、①カンボジアの平和構築に日本が果たした役割等の安全保障政策、②東南アジアの発展に日本のODAが如何なる貢献をなしえたのかといった経済協力政策、そして③「心と心の触れあい」という言葉から想起される文化交流政策、といった三つの政策分野から語れることが多い。
現在ジャカルタは相撲史上初めてという東南アジア巡業が予定されていて、「大相撲がやって来る」ということで大いに盛り上がっている(写真)。一日に数万人のジャカルタ市民がつめかける「ジャカルタ日本祭り」も間もなくだ。こうした日本・インドネシア友好ムードのなかで、東南アジアの対日イメージを変えた「福田ドクトリン」を、③の文化交流政策に絞って話を進めてみよう。
「北人南物」という言葉がある。「北」(欧米先進国)とは文化、学術、科学を通じた関係を深め、「南」(途上国)とは、資源、投資、市場を通じた関係を築けばよいという東南アジア観である(後藤乾一『東南アジアから見た近現代日本』参照)。「北人南物」は、近代以降の日本において長く抱かれてきた東南アジア観であり、外交政策もこうした認識とは無縁でなかった。
「福田ドクトリン」の歴史的意義として第一にあげるべきは、戦後日本のアジア外交において、「政治」、「経済」のお飾りとしてしかとりあげられることのなかった「文化」について、はじめて首相がその重要性を認知し、外交原則の一つとして言明したことだ。
インドネシアを初めて訪問した日本の現役首相は戦時中の東条英機(1943年)であり、戦後は岸信介(1957年)である。東条のインドネシア訪問は、第二次世界大戦完遂のために日本にとって生命線ともいえる資源の宝庫インドネシアとの関係強化のためであったし、岸の訪問は賠償と経済協力によって両国の経済関係強化、日本の輸出市場を確保することであった。いずれも「文化」を正面に据えるアプローチはなかった。「東南アジアにみるべき文化、人物なし」という「北人南物」的東南アジア観は、戦時中・戦後も途切れることなく、日本の東南アジア理解の基調をなしてきたといえよう。
「福田ドクトリン」は、この「北人南物」的東南アジア観を超えて、東南アジアにも敬意を表すべき「文化」が存在する、と今日の感覚から言えば当然すぎるくらい当然のことを、日本のトップが初めて明言したことに大きな意義がある。(ここで述べられている「文化」とは、文学、美術、音楽、舞踊、遺跡、学術、スポーツなどを含んだ広義の概念である)
日本人が謙虚にこれを学び、感動するならば、この地域と心を通わせることができる。日本文化の東南アジア紹介・東南アジア文化の日本紹介を通じた双方向交流によって、信頼関係が醸成することができる。そういう伸びやかなメッセージが東南アジアに向けて打ち出されたのである。