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賛助会員 小川 忠
(筆者は国際交流基金のジャカルタ事務所長として独自に情報発信をしている)
1977年8月18日。十二支のサイクルを時の流れの逆に三回転させた36年前の夏。当時日本の国民的関心事といえば、巨人軍の王貞治選手がホームラン世界新記録をいつ樹立するか、だった。すでに栄光の時へのカウントダウンが始まっていた(翌月の9月に達成)。
そしてあの頃は、昭和歌謡曲の全盛時代でもあり、記憶の断片が流行歌と結びつく。ジュリー、沢田研二の「勝手にしゃがれ」とピンク・レディーの「渚にシンドバッド」がヒットチャートのトップ争いを演じていたこともなつかしい。今や日本の夏を体現するバンド、サザン・オールスターズが、この2曲のタイトルをもじった「勝手にシンドバッド」でメジャーデビューしたのは、この年の翌年。36年の時の厚みは、人の一生を尺度にとれば、それなりに重い、といえるのではないか。
この日、東南アジア歴訪の旅にあった福田赳夫首相は、最後の訪問地マニラで、対東南アジア外交の理念について演説した。演説の終盤で、福田は以下の通り述べている。世にいう「福田ドクトリン」である。
第1に、わが国は、平和に徹し軍事大国にはならないことを決意しており、そのような立場から、東南アジアひいては世界の平和と繁栄に貢献する。
第2に、わが国は、東南アジアの国々との間に、政治、経済のみならず社会、文化等、広範な分野において、真の友人として心と心のふれ合う相互信頼関係を築きあげる。
第3に、わが国は、「対等な協力者」の立場に立つて、ASEAN及びその加盟国の連帯と強靱性強化の自主的努力に対し、志を同じくする他の域外諸国とともに積極的に協力し、また、インドシナ諸国との間には相互理解に基づく関係の醸成をはかり、もつて東南アジア全域にわたる平和と繁栄の構築に寄与する。
大半の日本の若者に「福田ドクトリン」と聞いても返ってくる答えは、「?」であろう。それは東南アジア諸国においても同様であって、「親日感情」が強いとされている地域であるにもかかわらず、大方の市民は福田赳夫という政治家の名前自体すら知らないというのが現実だ。しかし、東南アジアの対日、対アジア外交専門家、日本研究者、元日本留学生のあいだでは、戦後日本外交の一つの金字塔として「福田ドクトリン」が高く評価されているのである。
例えば、今年ルートリッジ社から発行された「日本の対東南アジア関係:福田ドクトリンとその後」(Japan’s Relations with Southeast Asia: The Fukuda doctrine and beyond)は、2007年にシンガポールで開かれた「福田ドクトリン」を再考するシンポジウムをまとめた論考集である。編者のシンガポール大学研究フェローのラム・ペンエ氏は、序文で以下のように福田ドクトリンの意義を示している。
福田ドクトリンの発表とその実行は、東南アジアの対日イメージを、如実に改善させた ―「恐るべきサムライ国家」「強欲な町人国家」から、「平和を育て、援助に取り組み、地域共同体形成に積極的な国家」へと―。第二次世界大戦中の日本帝国による東南アジア占領(の歴史)を乗り越えて、東南アジアと日本は和解を成し遂げ、もはや両者のあいだに戦争が勃発することを予想する者はどこにもいない。
さらに同じ論考集のなかで、タイ、タマサート大学キティ・プラサートサック助教授は、「福田ドクトリン」が経済的、文化的に健全な日本・アセアン関係の基盤となり、この基盤が今日の「東アジア共同体」論の原資になっていると指摘している。地域共同体形成の観点からみれば、福田ドクトリンの要諦は、日本と東南アジア間の「信頼醸成」「人材育成」「(連帯)アイデンティティー形成」であり、30年以上も通用する日本の対東南アジア外交の基本的枠組みを敷いたというのである。