講演依頼、コラム執筆、国際交流企画など、ご相談は無料です
理事長 池田 維
5月20日、台北での蔡英文総統の就任式典に招待され、出席したが、総統の演説は日台関係などに関し、馬英九前政権と決別し、いくつかの新路線をうかがわせる内容が盛り込まれた。印象的であったそれらの点を挙げてみたい。
まず内外から注目されていたのは蔡英文総統が中台関係につきどういう演説をするかという点にあったが、今回の演説では大方の予想通りされ「台湾独立」について言及することはなかった。
いわゆる「92年合意(コンセンサス)」については、92年に中台間の窓口機関の間で会談が行われたという「歴史的事実を尊重する」と一歩踏み込んだ発言をしつつも、「一つの中国の原則」を認めたとされる「92年コンセンサス(合意)」を受け入れることを避けた。そのうえで、今後の中台間の対話と意思疎通に関しては既存のメカニズムの維持に努めると発言した。これは、中台関係については92年以来の交流を通じ形成されてきた現状を維持してゆくとのと基本的方針が確認したことになる。つまり、「独立」を封印しつつも、「一つの中国の原則」の踏み絵を踏むことなく、中国との関係においては対等の立場で、平和で安定的な関係を維持しようとの基本的立場を鮮明にしたものである。ただ、この中台関係については、中華民国憲法、両岸関係条例などにもとづいて行なうとも述べ、中華民国憲法の存在を一段と強調していることが特徴的だった。
さらに米国や日本、EU(欧州連合)との関係については、「われわれは、自由、民主、人権という普遍的価値を堅持する」と言及し、友好的な民主国家との「価値の同盟」に加わる、と述べた。
振り返れば、8年前、馬英九前総統は就任演説において、日本に一切言及することがなく、日本代表団の間で物議をかもしたことがあったが、蔡は対照的に民主の価値を共有する国々との協力関係を強調したことになる。
余談になるが、今回の就任演説終了直後、日本代表団は蔡英文総統と短時間懇談する機会をもった。当方より、ひとこと祝意を述べたのに対し、先方は笑いながら「私は日本のことに言及しましたよ」と答えたが、これは明らかに馬英九演説を意識したうえでの発言と思われた。
また同演説のなかで、蔡はアセアン(東南アジア)諸国、インドとの間で「新南向政策」を進めると述べたが、これも現在の台湾が経済的にも、人的にも中国に偏りすぎたとの反省のうえに立つものだろう。この関連で、蔡は多国間、および二国間の経済協力協定を積極的に進めたいとして、TPP(アジア太平洋経済連携協定)やFTA(自由貿易協定)にも具体的に言及した。
一方、内政上の問題につき、多くの時間を割いて詳述したが、ここでは重点的に述べられた一部に絞ることにする。硬直化した年金制度改革、教育制度、エネルギ―資源政策、高齢化への対応、司法制度改革、貧富の格差、若者たちの低賃金問題の解決策などが主たる問題として取り上げられた。
そのなかでは、特に若者に関する言及が多く、青年たちのエネルギー、とりわけ、2014年の「ひまわり運動」が示した青年たちのエネルギーを取り込み、社会構造の改革への原動力にしたいとの狙いがあるものと思われた。
この就任演説から一週間を経た27日までに中国が同演説に対して取った反応のうち、注目されるのは「演説内容は漠然としており、未完成の答案を読むようだ」との比較的軽い論評から始まり、「一つの中国の原則」を認めない限り、近年中台間で行われてきた窓口機関による対話と交流は停止せざるを得ない」という強い牽制のトーンに変わってきたことだ。
さらに、中国の国務院台湾弁公室主任(張志軍)は訪中した台湾商工会議所の関係者に対し「台湾独立には前途はない。台湾独立は死への一本の道である」と極めて強い恫喝的言辞を使った。中国にとっては、「一つの中国の原則」を認めたという「92年コンセンサス」を認めない限り、「92年の歴史的事実を尊重する」(蔡英文)と言われてもとうてい信用出来ないというところなのだろう。
なお、「92年コンセンサス」については、台湾においては「一つの中国、各自解釈」を意味するものとして、「一つの中国」とは中華民国を意味するものと解釈されてきた。これに対し、中国はあくまでもそれが中華人民共和国を意味するものと解釈し、後半の「各自解釈」の部分を認めていない。まさに同床異夢の解釈から成り立った曖昧な概念であるが、中国としてはなんとしても台湾を中国の一部という大枠のなかに閉じ込めておきたいのであろう。
今後、中国は外交的、経済的、人的に蔡政権に対し、いかなる方策をとるだろうか。すでに、ガイアナにおける台湾から中国への国家承認の転換、ケニアに居住していた台湾人の中国への移送、中国から台湾への観光客の減少などの例を見れば、中国の蔡英文政権への圧力はさらに強まりそうな気配である。
ただし、既存のメカニズムを使い、平和で安定的な関係を維持したいという蔡英文政権の立場を無下に無視し、台湾に対し一方的に強硬策を採ることについては、中国としても台湾内部や国際社会からの強い反応を予期せざるを得ないだろう。
米国政府の対応も微妙に変化している。4年前、8年前の総統選挙と比較するならば、かつては、米国の台湾交流機関AIT(American Institute in Taiwan)の関係者が「92年コンセンサス」に賛成する総統候補が望ましい、と公然と発言したこともあった。しかし、今回の総統選挙においては,民主体制下の台湾人の選択を尊重するとの本来あるべき姿に戻ったように見える。昨年秋の蔡英文の訪米の際の米国政府、議会の対応ぶりはそのことをはっきり示した。
米国の学者・研究者のなかで、「92年コンセンサス」を重視すべしとの立場をとる人の数は最近あきらかに減少したと思われる。
蔡総統は就任演説の中で、米、日、EU との協力関係を強化する旨発言したが、台湾当局の対日関係布陣として、駐日代表に謝長廷氏(元行政院長)を起用し、亜東関係協会会長に邱義仁氏(元国家安全会議秘書長)を新たに配することになった。台湾の対日関係重視の表れと見るべきであり、歓迎すべきことである。
日本として台湾を支援すべき課題は少なくない。なによりもまずTPPへの台湾の加入や日台間のFTA(自由貿易協定)の締結などに協力することが肝要と思われる。
なお、蔡新政権発足後、「沖ノ鳥島」に関する台湾当局の法的立場は馬政権の立場から大きく変更された。新政権としては、国連海洋法条約に基づく大陸棚限界委員会の決定があるまで、これが島であるか、岩であるかの議論をやめ、双方話し合いで解決したいとの方針を明らかにしている。