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前述した通り、ナショナリズムには、その源泉となる観念によって、民族ナショナリズム、宗教ナショナリズム、領域ナショナリズムなど様々なバリエーションがある。インドネシアは、独立への闘いのプロセスで、領域ナショナリズムを選びとった。
多様性の国インドネシアにおいて、民族的にはジャワ人、宗派的にはイスラム教徒が主流を占める。他の多民族・多宗教国家の国家設計を見ると、主流派のアイデンティティーを国家の核と定めている例も少なくないが、インドネシア独立の父たちはあえてジャワ語を「国語」、イスラムを「国教」として採用せず、民族ナショナリズム、宗教ナショナリズムに拠らない国民意識形成の道を選んだ。
すなわちジャワ語ではなくインドネシア語を「国語」とし、イスラムを「国教」と明示せず「唯一神への信仰」というあえて曖昧な表現で、国家が各宗教に等距離で接することとした。絶妙なバランス感覚である。
とはいえ、独立後のインドネシアにおいて、「ジャワ」「イスラム」であることの存在感は大きく、1回目のジャカルタ駐在をしていたスハルト時代には「この国で大統領になるための3要件」と言われていたうちの2つだった(ちなみに3つ目の要件は陸軍出身者)。
しかし四半世紀の時の流れを経て、インドネシア社会で「大統領になるための3要件」は語られなくなってきった。まず脱落したのが、「陸軍出身」である。スハルト政権が崩壊したことで、軍部による政治支配が終わり、民主改革が始まって、「軍人でなければこの国を統治できない」という「神話」は消えた。
そして20年ぶりに戻ってきた今回のインドネシア駐在で、首都ジャカルタにおいて感じたのは、ジャワ文化の存在感がかなり弱まったということだ。かつては街角に、もっとガムランの音色が流れていたし、財力のある一家が勧進元になって生のワヤン・クリット(写真)が上演され、外国人である私もこれを楽しむ機会は多かった。
ジャワ文化は、土着の信仰と外来の仏教・ヒンドゥー教、さらにイスラム教が融合して形成された奥の深い(外部から理解するのに難儀な)文化だ。日本人になじみの深いバリ島文化も、ジャワ文化とのつながりが深い。国民の4割を超える主流民族のジャワ人が、ジャワ語、ワヤン、ガムラン等々に見られる高度な宮廷文化を発達させた。
貴族社会で育まれたジャワ的価値観からすると、目下が目上に率直な物言いをするのは失礼、粗野とみなされ、ジャワ人の対人関係では敬語、婉曲表現、相手の心を読むことが尊ばれた。
こうしたジャワ文化の特性は、上下関係に厳しい軍人が支配し、自由な言論を制限するスハルト体制にとって、少なからず利用価値のあるものと考えられた。文化の多様性を誇るインドネシアのなかでもジャワ文化は中心に据えられた。それゆえに国営航空会社のシンボルが神鷲ガルーダであることに見られるように、「インドネシアらしさ」を醸しだしてきたのが、ジャワ文化だった。
しかし近頃は、(ジャワ宮廷文化の本家本元ジョクジャカルタやソロでは違うかもしれないが)ジャカルタでは「ジャワ的なるもの」に出会う機会がめっきり減ってしまったような気がする。
ジャワ文化退潮の理由の一つは、インドネシア語による国民統合進展に伴うジャワ語空間の縮小にあろう。また文化の画一化が進行するグローバリゼーション時代において「お手軽なもの」「理解しやすいもの」が重宝される風潮のなかで、受容する側の受容能力が問われるジャワ文化は時代の流れにあわないものになってきていることも、退潮の理由に挙げられよう。そしてジャワ中心主義的体質をもったスハルト体制が崩壊し、率直な議論、雄弁を問われる民主主義体制に転換したことも、この変化の一因と考えられる。
他方、このジャカルタ通信でも何度もテーマにしてきたように、社会のなかでイスラムの重要性はますます大きくなっており、宗教という領域をこえて、政治、経済、社会、文化において少なからぬ影響を及ぼしつつある。「インドネシア社会のイスラム化」は加速している。
グローバリゼーションが加速する今日、大量のヒト・モノ・金・情報が国境をこえて移動することによって、同化ベクトルの圧力が増すと同時に、これに反発するように独自性、異化を求めるベクトルも強まっている。今世界各地で発生している極端なナショナリズム、排外運動や宗教過激主義は、異化のベクトルを肥しに蔓延し、既存の国家体制や国際関係にも暗い影を落とす。
ジャワは陰影深く、玄人好みの文化であるが、その個性、深奥性ゆえに万人に分かりやすいとはいえない。欧米発グローバリゼーションの同化ベクトルに対抗していく、国民国家インドネシアの異化のベクトルとして、ジャワ文化は、ジャワ人以外の諸民族(例えばミナンカバウ人、ブギス人)には、アイデンティティーの源泉として採用しにくいのに対して、イスラムは世界宗教であると同時に一つの普遍的な文明であるがゆえに、ジャワ人以外の諸民族集団も自らのアイデンティティーとして吸収しやすい性質をもっている。
ジャワ・アイデンティティーの退潮、イスラム・アイデンティティーの覚醒という現象は、こうしたグローバリゼーション下に置かれたインドネシアという状況から説明することも、一つの仮説として意味があるかもしれない。
さらに「イスラム化」するインドネシアでこれから焦点となってくるのは、主流派イスラムが、他の宗教少数派に対して寛容、柔軟でありうるかどうかだ。そうでなくなると、インドネシアの国民統合は大きく揺らぐ。
インドネシアにおいて、そして国際関係においても、宗教がより重要な役割を果たす時代が来ている。日本で生活している限り、宗教についてさほど意識することはないが、「宗教の復権」という潮流が世界的に強まりつつある。それは、国際政治で激化しているようにみえる宗派間対立をどうするかという負の側面のみならず、人々の新しい価値観、新しい文化の創造というダイナミックな変化にも関係してくる(写真:ジャカルタのイスラム・ファッション・イベント)。
日本が21世紀の国際社会で生きていくために、今いちど宗教(インドネシアの場合、特にイスラム教)についての知識を深め、世界の歴史について学び直していく重要性を痛感する。
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(追記)ご挨拶
3月1日に帰朝発令を受けた。今月をもって、2011年9月赴任以来4年6カ月のジャカルタ駐在生活が終わるので、今回が本ジャカルタ通信の最終号となる。そこで、この最終号では、あらためて文化という視点からインドネシアという国のアイデンティティー、ナショナリズムを捉え直してみた次第だが4年半に及ぶご愛読ありがとうございました。