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国際問題コラム「世界の鼓動」

インドネシアに再び危機は来るのか?

アジア通貨危機 秘話 

アジア通貨危機と一口で言っても、危機の諸相は各国においてそれぞれ異なっていた。アジア通貨危機の犯人は、ヘッジファンドという声もあるが、危機の発端となったタイはそうであったが、韓国やインドネシアではほとんどヘッジファンドは絡んでいなかった。インドネシアでは、危機は通貨・金融の危機であるのみならず、政治の危機であったという側面を見逃せない。政治と経済の矛盾が絡み合い、悪循環の結果、当初深刻視されていなかった状況を悪化させていったのである。

一例をあげる。インドネシア政府はIMFに支援を求め、10月31日に両者は経済調整プログラムに合意した。IMFプログラムの一環として、政府は財政状況が悪化していた16の銀行を閉鎖した。市場はこの措置を、金融制度の信頼性、透明性を高め、危機をくい止める効果的な政策として当初歓迎した。ところが、閉鎖された銀行のなかで大統領の息子が所有するアンドロメダ銀行が、別の法人名称で同じ場所に同じスタッフによって復活したのである。

この動きを世論は、大統領家族に対する「えこひいき」と見た。結果として、改革を求めるIMFと大統領の対立は激化し、両者の不一致は衆目が知るところとなった。

97年11月時点において金融危機を克服するためには、スハルト一族のファミリービジネスという政治問題にメスを入れ、金融当局が毅然たる態度をとることが、市場の信頼を獲得する上で不可欠であった。そうした措置が貫かれたならば、危機は終息に向かったかもしれない。しかし、この局面での当局の対応が不完全、不透明なものであったため、市場の不信を呼び、混乱は続き悪化していくのである。

スハルト大統領個人に権力が集中し、この個人支配体制が長く続いたことの弊害が、この国の通貨・金融システムにも絡み合っていたといえる。つまりアジア通貨危機は、インドネシアでは問題の本質として政治体制の危機だったのである。

 ところでIMFの支援と聞くと、近年のギリシャ危機の紆余曲折を思い出してしまう。財政赤字の隠ぺいが明らかになり経済破たんの危機に陥ったギリシャに対して、IMFとEUは2010年、2012年の2度にわたり支援を行ったが、その支援条件として増税・年金改革・公共投資の削減など国民に負担を強いる緊縮財政政策が課されていた。負担に耐え切れなくなった国民は反緊縮政策を掲げる野党を今年1月総選挙で勝利させ、ギリシャ危機が再燃した。

97年から98年のインドネシア危機に関しても、このギリシャ危機と重なって、「痛みを伴う改革を求めるIMF」VS「国外勢力の介入に抵抗するインドネシア政府」という構図で考えがちだ。しかし事実はもっと複雑な政治力学がはたらいていたようなのである。

スハルト大統領は、「バークレーマフィア」と呼ばれる欧米の大学で近代経済学を学んだテクノクラートを登用し、経済・開発政策を担わせて、成果をあげてきた。しかし次第にスハルト一族のファミリービジネスに眉をひそめるテクノクラートと大統領の間に微妙な溝が拡がっていた。

ギナンジャール証言によれば、経済・開発テクノクラートのあいだでは、大統領に直言しても了解を取り付けるのが難しそうな政策は、IMFや世銀から提案させるという手法が、97年危機以前から用いられていたというのである。いわゆる「外圧」利用だ。インドネシア政府とIMFの、97年10月、98年1月の経済調整プログラム合意についても、舞台裏で経済テクノクラートとIMFの間でひんぱんに連絡がとられていたことを考えると、「IMFに押しつけられた」という理解は、いささか単純な見方であろう。

第2次経済調整プログラム合意調印式 ここで印象に残るギナンジャール証言がある。98年1月15日に、スハルト大統領、IMFカムドシュ専務理事が出席し、第2次経済調整プログラム合意調印式が行われた時のことだ。調印式で、カムドシュ専務理事が腕を組んで見おろす下でスハルト大統領がサインする姿は、インドネシア国内で「屈辱的」と捉えられナショナリズム感情を湧きあがらせる結果になった(写真)。しかし当局が意図していのものは全く逆で、それまで対立激化が喧伝されていた大統領とIMFが一致して難局にあたる姿勢を演出するために調印式が組まれたのだという。ギナンジャール証言を引用する。

「(調印式は)神格化されてきた大統領の実像を国民の前にさらした。彼がこのような屈辱に耐えなければならないという事実は、不倒の強者と考えられたスハルトもまた弱き人間であるという、もう一つの事実認識を、社会にひろめる結果を生んだ。」

 当事者が意図せざるところで、一つのセレモニーが体制崩壊の弔鐘を鳴らし始めた、ということだろう。その後、ジグザグコースをたどりつつ、わずか5か月後に盤石と考えられたスハルト体制は終えんを迎える。

97年から98年にかけてのインドネシアにおける危機は、非民主的、強権的な政治体制は、亀裂が生じると案外もろいものであることを教えてくれる。この時の試練を乗り越えてインドネシアは、民主主義体制に舵をきった。現在の経済情勢は思わしくないものの、民主化されたインドネシア(かなり不完全だが)において、98年のような破局が来る可能性は極めて低いのではないか。

「オーラルヒストリー」に記録されたギナンジャール証言を読んだ印象である。

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2015年9月30日 up date

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