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古庄 幸一(理事)
「お父さん、今流行っている道路族っていう言葉知っていますか」と遊びに来た三男の嫁に質問された。「それは、かつて高度成長期に高速道路等の建設のため自民党内にできた一つの部会の名前で、道路建設利権と絡んでいた党内の専門集団のこと。地方からの陳情先でもあったし、他に郵政族とか農政族とかまたは国防族等と議員を呼んでいた。そのひとつの群れだね」「それが違うのです。今や、家の前の道路で遊ぶ、子供達とその親のことなのです。実は近所のお年寄りから学校に、路上で遊んでいる子供達の声がうるさいとか、路上の落書が見苦しい等の苦情が寄せられ、学校から、家の周りの道路上で子供達を遊ばせないでとの、文書が配られたのです」と納得のいかない顔。
聞けば子供達は外で遊ぶ場所がだんだんなくなり、自然と家の周りの道路で遊ぶように変わってきたらしい。そこで大声をあげたり、ボール投げをしたり時にはボールが庭に入ったり家の窓ガラスを破損したりすることもあるとか。それを注意すると、次にはその子の母親が注意した家に怒鳴り込んでくる。これらの親子のことを道路族と呼ぶらしい。
我々が子供の頃は、近くの神社やお寺または、田舎の村々には子供が遊べる位の広場がありそこが遊び場だった。そこで遊ぶ子供達の仲は、リーダー格の上級生が仕切って、一定のルールを守りながら遊んでいたように思う。それでも周囲に迷惑を掛けるようなことをすれば、近くの大人から注意を受けていたが、周囲の人達はきちんと子供達を見守ってもいた。今やこの大人の目もなくなり、子供達はゲーム感覚的にしたい放題でもあるのだろう。しかし怒鳴り込む母親も母親だが子供達の路上の遊びは禁止する程の事だろうか。
広島にある行者山太光寺(天台宗)で、毎年八月五日の夕方から翌六日の原爆が投下された八時十五分まで、平和祈願護摩供養が行われていて今年も参加した。今年で第十一回目を迎え、夕方からは屋台も出て「コンサート」や住職と著名人との「クロストーク」、そして花火等のイベントで多くの人が寺に集まる。しかし今年から供養で打ち上げていた花火は中止となった。お寺周辺の多くの方々からは、毎年楽しみにしていると好評だったが、近所に住む一部の方から、それでなくても暑い夏の夜に花火の音がうるさくて寝られないと警察に苦情通報があり、やむなく中止したらしい。この話に対し嫁が、「小学校の運動会でも、近所の人から、流す音楽やマイクの音がうるさいと学校に電話が有り、音量を小さくしてやらざるを得なくなり、いまいち盛り上がらず情けない」と愚痴った。
いつからこんな料簡の狭い世の中になったのだろう。自分中心で生活して、周囲にとけ込むことが出来ない人が多くなったのか。少子高齢化が進んだ社会で地域行事の楽しみ方を考えてはどうか。例えば、夏休み子供達が行っているラジオ体操を大人や年寄りも一緒に地域の集まりとして年間を通じて始めてはどうだろうか。近頃は子供達より老人が多い地域の現状がある。集まる様な公園が無ければ、住宅前の道路でもいいのではないか。住民一同が一日に一回顔を合わせる。年寄りは元気になり昔とった杵柄で子供達を指導する。子供達は大きな声で挨拶を返す。何かの拍子に大声で笑う。近所の者同士が顔を知り合うだけでも、事故防止にもつながるだろう。知らない人から声を掛けられても「答える必要はない、知らんふりをしなさい」なんて教えなくてもよくなるだろう。地域に笑いが起これば予算をかけなくても明るくなる。細かな決め事も要らない。その地域に合った社会の在り方を考え守ることで角も取れて、道路族も消え運動会も地域の行事へと変化すると思う。
何か新しいことをやろうとすると必ず反対する人も出るだろうが、かつては村長的な世話好きな人が必ず居たものだ。隣は何をする人ぞ、ではなく、声を掛け合い知り合う為の第一歩を踏み出す時だと思う。佛教で「忘己利他」と教える。
(平成26年8月19日)