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国際問題コラム「世界の鼓動」

シリーズ・海外渡航と医療

五味 秀穂 (財)航空医学研究センター所長

五味 秀穂
(財)航空医学
研究センター所長

グローバル化の進展に伴って、国境を越えたヒトの往来は年々急速に増加している。日本人の海外旅行者数もいまや年間二千万人近くに達し、外国での長期滞在者数もすでに百数十万人に上っている。ビジネス、観光、海外赴任などその理由はさまざまだが、この海外渡航者数は今後さらに増えていくものと見られ、そうした状況の下、異国の地で、様々な疾病に見舞われることもある。

このシリーズは多くの海外渡航者の健康を守るために少しでも役立ちたいとの考えから、できるだけ多角的に参考医療情報を提供する目的で始めるものであるが、本論に入る前に、この分野の専門家として私が個人的に経験したいくつかの事例を紹介していくことにする。

ロンドンでの医療体験(1)

英国ロンドン日本クラブ診療所

英国ロンドン日本クラブ診療所

私は1996年より3年間、英国ロンドン日本クラブ診療所において、現地在住日本人及び旅行者の診療に携わる経験をした。そこでの私の外来の1日患者数は約50名であったが、いくつか印象に残る症例を経験した。それらの症例に触れながら、英国医療の一面を語ってみる。

日本クラブ診療所は北と南の2つの診療所を持ち、それぞれロンドンの中堅規模の私立病院である「ST.John and ST.Elizabeth Hospital」内及び「Parkside hospital」内に入っており、そこのスタッフの一員として診療行為を行い、検査・薬局もその病院を利用することができた。ちなみに「ST..John and ST.Elizabeth」
病院はホスピスとして有名で、時折、故ダイアナ妃が慰問に訪れたことがある。

日本からの派遣医師は、当時は書類手続きのみで英国人医師と全く同じ医師免許を与えられていた(ただし診療対象は日本人に限定され、医師も7名までと限定)。またそれぞれの病院の病室は全て個室であり、私立の病院ゆえ入院費は当時、部屋代だけて1日約200-250ポンド(約3万4千―4万2500円)が最低であった。

その患者さんが北診療所の外来に来たのは、私が渡英して間もない1996年5月頃であった。20歳代前半の語学学校留学生の女性で、当初私の同僚に風邪症状で受診した。通常の風邪薬等処方されたが、4-5日後に意識が低下しているといって、友人の女性が彼女を抱きかかえて再来院した。とりあえず私はその患者さんを入院させることとしたが、生憎診療所内の病院が満室であったため隣のやはり私立で更に高級な「Royal Free Hospital」に入院させ、現地の消化器専門医師に主治医として診断をお願いした。

血液検査等の結果、同主治医の下した彼女の診断名は「劇症肝炎」であった。その病名を聞いた時に、私は正直途方に暮れた。当時日本では劇症肝炎の場合、治療の主体は血漿交換療法であった。これは日本でも高額な医療を毎日行って、肝臓が再生してくるのを待つ(いつ戻るかは不明)という治療方法である。部屋代だけでも1日約300ポンド(約5万円)、それに高額な治療費、あてどなく回復を待つ・・。私は一瞬、途方に暮れたが、とりあえず日本にいる彼女のご両親に連絡し、来英していただくこととした。

翌日、英国人の主治医と彼女の今後の治療法について相談した。そうしたら主治医の口から出てきたのは、私のまったく予想もしていないものだった。主治医はいとも簡単に「肝移植」と言ったのだ。「えー」。私は冗談だと思いながら、唖然としてしまった。ところが、主治医は直ちに移植の手続きに着手し、まことに幸運にもNHS(英国国民医療サービス)の肝移植枠のリストにノミネートされ、滑り込んだのである。NHSの肝移植にリストアップされるやいなや、彼女はNHSの病院(私立の病院に比べるとやや見劣りするが)に移され、免疫抑制剤等の投与を受けたのである。

それから数か月後、彼女が再び外来患者として私の診療所に現れた。無事肝移植を終え、元気になっていた彼女は、日本へ帰国するので、挨拶に来たのだと言った。その姿に医師として私は感激し、感動を覚えた。その当時の日本では「脳死判定」さえも確立しておらず、臓器移植は親兄弟などからの生体腎・生体肝移植が殆どであったからである。日本で臓器移植法が成立したのは1997年だが、今でもドナー不足で、それほど順調に移植手術を受けられるわけではない。彼女はたまたま英国で難しい病気の発症がわかったために、無事乗り越えられたのかもしれないと思わずにはいられなかった。

一般的に英国の医療サービスでは、公的医療保険の適用になるNHS病院はあまり評判は良くないが、人命を分け隔てなく優先するその考え方はさすがに敬意を払うに値する。これこそ英国医療の神髄・底力だと痛く感じ入った。そのうえ、NHSの範疇において治療が受けられたため、治療費はさほど高額ではなかったと後日聞いた。

日本での臓器移植は近年、ドナーの対象年齢も下げられているが、今日なお「脳死」の問題はハードルが高い。これには日本社会の伝統的な生死観など複雑な問題が絡んでおり、一刀両断に是非を判断できるものではないことは承知しているが、それでも私はこのロンドンでの体験から学ぶことが多いと考えている。実は、私の知人も肝移植のため超高額な資金を用意し、少し前に渡米した。それにつけても、彼我の医療文化の違いに改めて思いを致している。知人の移植手術の成功を祈りながら・・・。

2014年6月18日 up date

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