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国際問題コラム「世界の鼓動」

ルワンダ虐殺から20年:赦すことの意味

賛助会員 春海 二郎

(筆者は長年、在日イギリス大使館に勤務し、イギリス関係情報を独自に発信するサイト「むささびジャーナル」の運営をしている)

4月6日付のGuardianに

Forgiveness is not something you feel – it is something that you do

赦しとは感じることではない、行うことだ。

という「見出し」の記事が掲載されています。記事というよりエッセイなのですが、筆者はカソリック教会の司祭であり、エッセイストのようなこともしている、ガイルズ・フレーザー(Giles Fraser)という人です。

英国の新聞の場合、「見出し」と言ってもこのように文章のように長くて説明的なものが多いのですが、これなどその見本のようなものです。さらに英米の新聞記事の場合、見出しがあって記事が始まる前に一種のイントロのような部分があり、筆者の伝えたいメッセージが書かれています。この記事の場合は

(被害者が)加害者に対して優しい感情を持つという意味での「赦し」の問題点は、そんなこと普通には不可能であるということである。

The problem with forgiveness as a kindly feeling towards a wrongdoer is that it is impossible for most of us

となっている。それにしてもなぜいま「赦し」(forgiveness)をテーマにしたエッセイを掲載するのか?以前にアフリカのルワンダで部族同士の殺し合いが発生、多数派のツチ族によってフツ族の100万人が殺されるという事件が発生したことがあります。いわゆる「ルワンダ虐殺」(Rwandan genocide)です。1994年4月のことだった。あれ以来ツチとフツの間における「和解」(reconciliation)とか「赦し」が語られてちょうど20年が経過した・・・フレーザー司祭がこのエッセイを寄稿したのはそれが理由です。

自分自身が毎日の生活の中で全くどうでもいいようなこと(things that are pathetically small)で他人を赦すことができないのだから、このことを語る資格はないのかもしれない・・・とガイルズ・フレーザーは言ったうえで

I am going to risk it only because I suspect there is so much sentimentalising of forgiveness that it blocks out much of our understanding of the real thing. 

それでも(赦しについて語るという)リスクを負ってみよう。その唯一の理由はというと、赦しについてセンチメンタル(感情的・感傷的)に捉えることばかりが横行しており、本当の意味での赦しというものを理解することの妨げになっているということにある。

と述べている。赦しというものを「感情的・感傷的に捉える」(sentimentalising)という意味は、被害者が加害者に対して「優しい感情」を持つということであり、そんなことはできっこない。

フレーザー司祭は「赦す」ということを「優しさ」というような感情の世界から切り離して考えようと言っている。例えば自分の子供が苛めにあった場合、親は苛めた人間に対して優しい感情など絶対に持てませんよね。赦すということを相手に「優しい感情を持つ」というような内面的な営みであると考えると、敵を赦すということは普通には不可能ということになる。

One of the things I have always liked about the stories of the Bible is that they are mostly uninterested in a person’s inner life. They don’t say much about how Jesus feels. But they say agreat deal about what he does. 

聖書に出てくる物語について私が常にいいと思うのは、そのほとんどが人間の内面の生活には無関係・無関心であるということである。聖書はイエス・キリストがどのように感じているかということはあまり語らない。しかしイエスが何を行ったかについては大いに語っている。

フレーザーによると、「赦し」も同じで、それは「感じる」ものではなく、「行う」ものなのであります。言い換えると、相手に対して「優しい感情」を持たなくても「赦し」は可能であるということになる。さらに赦すということは、「眼には眼を」という態度を拒否することであり、暴力に対しては暴力で対抗するという発想を受け付けないということであると言います。

しかし「眼には眼を」という態度を拒否するということは、加害者や犯罪人に何もしないということにならないのか?犯罪には刑罰で応じるというのが正義というものではないのか?というように考えていくと「赦す」ということは不正義を行うということになる。が、場合によっては、赦しによって相手との平和的な共存が可能になることがあり、それがゆえに赦すことに価値があることもある、とフレーザーは言います。

仕返しをすることで正義がなされるというのは幻想であり、それが次なる敵意を生み、怒りと暴力の車輪が延々とまわり続けることに繋がることもある。きょうの被害者が明日には加害者になるということだってある。

「眼には眼を」という相互主義(reciprocity)を拒否して「赦し」を行ったとしても、実際には内面的な意味での満足感のようなものが得られることはない。それどころかますます苦々しさと怒りが募るというのが哲学者、ニーチェの言であったそうです。それでも「眼には眼を」主義を拒否することについてフレーザー司祭は

しかし(赦すことでますます怒りがこみ上げるとしても)それが平和のために負うべき重荷なのだとしたら、それを背負うではないか。赦しこそが復讐のサイクルを打ち破り、過去の暴力や憎しみから解放された未来を可能にするものなのだ。

But if this is the burden we have to bear for peace, then so be it. Forgiveness breaks the cycle of revenge and makes possible a future that is not trapped in the violence and hatred of the past.

と述べています。

2014年4月21日 up date

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