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このドキュメンタリー映画は、現代インドネシアをより深く理解するための格好の教材ともいえよう。映像を通して、現在のジャカルタ、そしてインドネシアの経済、政治、社会の今が見えてくる。幾つかの視点を書き留めておきたい。
まずは経済社会的な視点から始める。手垢のついた表現で恐縮だが、一言でいえば、三人のミュージシャンたちは「貧しくもたくましく生きる」人びと、ということになろう。しかし時に携帯電話で仲間と連絡を取りあい、時に豪華なショッピングモールを闊歩する彼らの「貧しさ」とは何だろう。この点を理解する上で、参考になる研究書が昨年日本で出版された。慶応義塾大学出版会から発行された『消費するインドネシア』である。
世界銀行は中間層の定義を、1日の消費が2米ドルから20ドルまでの層、と規定している。この定義にはあてはめると、今やインドネシア国民の過半数以上が中間層ということになるが、編著者の倉沢愛子氏はこの定義ではあまりに大ざっぱすぎてインドネシアの現状を正しく表現できていないと主張する。そして倉沢氏は、社会的体面をそれなりに気にする真正中間層とは別に、「一見経済力を伴わないにもかかわらず彼ら〔真正中間層〕と類似した消費行動を見せる人びとが大量に出現してきている」と指摘し、こうした人びとを「擬似中間層」と呼んでいる。
倉沢氏は、世銀の定義に置き換えれば「1日あたり2~4ドルの消費をする人たちのほぼ全部、そして4~6ドルの消費する人たちの一部」が、擬似中間層であるという。インドネシアの急速な経済発展が大量の下層階級を擬似中間層に、擬似中間層を真正中間層に押しあげつつあるのである。
ボニ、ホー、ティティは擬似中間層の予備軍、もしかしたらティティはすでに擬似中間層に仲間入りした、と位置付けられるかもしれない。彼らは貧富格差に憤りつつも、希望を失っていない。そして他国の中間層がそうであるように、教育の価値を認めて、社会的に成功するためには学歴が必要であると、彼らは考える。たとえばティティは自分の教育のために投資することに躊躇しないし、子どもにもちゃんとした教育をつけさせてやりたいと願っている。
その社会観は、昭和30~40年代の高度経済成長を担った、私の両親世代と変わらない。彼らの明るさは、登り坂を頂点めざして駆けあがろうとしている国に生きる庶民特有のものだ。