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賛助会員 春海 二郎
(筆者は長年、在日イギリス大使館に勤務し、イギリス関係情報を独自に発信するサイト「むささびジャーナル」の運営をしている)
11月5日付のTelegraphのサイトに掲載されたトビー・ヤング(Toby Young)という評論家の
Thirty two million reasons why children should start school at the age of two
子供の学校教育を2才から始めるべき3200万の理由
というタイトルのエッセイを紹介するには、英国の教育制度まで紹介しなければならないのですが、これがしょっちゅう変わっているし、日本ほど杓子定規・全国一律でないところがあって部外者である私には確信をもって説明することが難しい。ただこのエッセイが問いかけているテーマは大いにディスカッションの価値があると思います。子供の学校教育は早く始める方がいいのか、遅い方がいいのかということです。
現在、英国の義務教育(compulsory education)は5才~11才の小学校、11才~17才が中学校です。つい昨日までは16才までであったのですが、今年(2013年)から17才に引き上げられ、さらに2015年には最終年齢が18才に引き上げられることになっています。ただ最近の英国では小学校に入る前の3才~4才という「早期年齢」(early years)も教育期間に入れて考える傾向がある。これは殆どの児童が小学校の前に幼稚園へ通う日本と同じようなものです。幼稚園へ行くのは義務ではない。けれどほとんどの子供たちがそのようにしており、小学校への入学時には全員が幼稚園教育を受けたということが前提のような雰囲気になっている。トビー・ヤングのエッセイのポイントは、ここにあります。
最近、ある教育関係者がロンドンにおける会合で「子供たちの義務教育は2才から始めるべきだ」と発言したことが話題になっています。この発言は、OFSTEDという教育関連機関の会長職にある人によるものであっただけに、メディアの間でも大いに話題になっており、トビー・ヤングのエッセイはこの考え方に賛成するアングルから書かれている。OFSTEDはOffice for Standards in Education, Children’s Services and Skillsの略で、日本の教育関係者の間では「教育水準査察院」という日本語に訳されているようですが、イングランドにある個々の小学校や中学校の教育水準を査定、その結果を議会に報告するのが役割です。一応政府機関となっているけれど、教育省とは別の独立機関です。
で、OFSTEDの会長(サリー・モーガンという女性)の「義務教育を2才から始める」という提案ですが、現在のシステムでは、5才の義務教育が始まるころには、貧困家庭に育った子供は富裕層の家庭の児童に比べて読み書き能力の点で「19か月も遅れている」(19-months behind)のが実態であり、とても教育できる状態ではない。そこでこの際、全員を2才から学校に入れてしまおうというわけで、できれば2才~18才までを同じ学校に通う「一貫校」(all-through schools)の設立まで呼びかけてしまったわけです。
で、トビー・ヤングのエッセイのハナシです。彼は義務教育の早期化に賛成なのですが、特に強調しているのが、サリー・モーガンのいわゆる貧困家庭と富裕層の家庭に育った子供たちの間の知的格差の存在であり、それを生む家庭環境の問題で、その昔アメリカの学者が行った調査を引き合いに出しています。
1980年代の半ば、アメリカ政府は巨額の予算を使って貧困層の子供たちの教育水準向上に取り組んでいたのですがさっぱり成果が出ない。そこでカンザス州で暮らしていた二人のアメリカ人心理学者(Betty HartとTodd Risley)が地元の家庭42軒を対象にある調査を行った。ヤングによると、学者はまずこれらの家族を3つのグループに分けた。
所得が最も低いのは最初のもの、3番目の「専門職」というのは、医者、裁判官、大学教授のような人々のことですが、これら42家族に共通しているのは赤ちゃんがいるということだった。
二人の学者が調査しようとしたのはそれぞれの家族における親と子供(赤ちゃん)の会話だった。毎月一回、約2年半それぞれの家庭に通って1時間過ごし、その間の親子の会話を録音した。それから6年間かけて会話のすべてを一言ももらさずに文字に直し、徹底的に分析した。そしてそれぞれの子供が9才になった時点で再会し、彼らの学業成績を調べたのだそうです。当然ながら勉強ができるのは「専門職の家庭」の育った子供たちであったわけですが、トビー・ヤングが問いかけているのは「何故そうなのか?」ということです。
この調査を通じて二人の心理学者が発見したのは、親が子供に語りかける言葉の数の違いだった。専門職の家庭の子供が親から語りかけられる言葉数の平均は1時間当たり2153語、労働階級の場合は1251語、生活保護受給家庭の場合は616語であったのだそうです。つまり1年間に専門職の子供は1100万語、労働階級の子供は600万語、生活保護受給者の子供は300万語ということになる。ということは・・・
4才になるころまでに、専門職家庭の子供と生活保護受給家庭の子供の間には、親から語りかけられた言葉の数の点で3200万語の差があるということだ。
By age four, a child from a welfare-recipient family could have heard 32 million words fewer than a classmate from a professional family.
と二人の学者は言っているのだそうであります。これでは小学校入学時に知的な差が出て当たり前ということです。もちろん親に語りかけられる言葉の数だけが子供の知能の決定要因ではないけれど、それが「最も重要な環境面での要因」(The most significant environmental factor)であることは間違いないということは、アメリカの教育学者の間でも認められていることなのだそうです。
で、最初の部分にある義務教育の年齢を2才にしようという提案に賛成しているトビー・ヤングの言い分は、子供たちが教室で教師によって語りかけられ、本を読んでもらうという経験をすることで、家庭環境の如何にかかわらず知的な発展には大いに役に立つということです。これをやったとしても子供たちは一日の多くの時間を家庭で過ごすのだから、30年前にアメリカの学者が指摘した「3200万語の差」をすべて解消することにはならないかもしれないけれど、少なくとも1600万語くらいにまでは縮められるのではないか、というのがトビー・ヤングの主張です。
トビー・ヤングが引き合いに出したアメリカの学者の研究について、Rice Universityのサイトでより詳しく紹介されているのですが、その中で親が子供に語りかける言葉の中身についても面白い結果が出ています。親が子供に語りかける言葉の中で、肯定的な(encouragement)言葉と否定的な(discouragement)言葉の割合です。いわゆる「専門職」の親の場合、否定的な言葉一つに対して肯定的な言葉が6つ語られ、労働階級の場合はこれが1対2となり、生活保護家庭ではこれが逆転して、肯定1に対して否定が2であったそうです。つまり富裕層の子供たちは親から常に「よくやったねぇ!」というような言葉をかけられるのに対して、貧困層の子供の場合は「このアホ」というような言葉が多いということです。
サリー・モーガンやトビー・ヤングが推奨する、以上のような義務教育の早期化論は、どちらかというと子供たちの学力の全体的な底上げを意図したもので、現政府の教育大臣もこれには大賛成です。ただ義務教育の早期化には警戒する声も強い。あまりにも早いうちから読み書き・計算を教え込もうとするのは子供たちの「自然な発育」(natural development)にダメージを与えるものだという意見です。この意見については別の記事として紹介させてもらいます。