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インドネシアへの千名規模の奨学金供与やジャカルタ中国文化センター設置などが打ち出されたことは、インドネシア国民にアピールする習主席の華麗なパブリック・ディプロマシーであるが、ジャカルタにいて感じるのは、この政策をインドネシア国民が留保なく歓迎しているわけではない、ということだ。
習主席の国会訪問を報じたジャカルタ・ポスト紙(10/4)が、「習近平の歴史的スピーチに出席したのは、全560名衆議院議員のわずか30%」という小見出しをわざわざ付けているのは、すっきりしないインドネシア国民感情の一端を垣間見せているようだ。
国会演説のなかで習主席は交流の歴史を以下のように熱く語った。
「中国インドネシア両国民は二千年にわたって古代から大海原を乗り越えて交流してきた」
「中国明代の著名な航海家、鄭和は七次にわたって大航海を敢行し、その度にジャワやカリマンタン等を訪問して、両国人民の友好を促進した」
「中国の古典名著『紅楼夢』にはジャワの秘宝が描写され、一方インドネシア国立博物館には大量の中国古代陶器が収蔵されていることは、両国人民の友好的な往来が行われてきたことの証である」
「20世紀の民族独立解放の闘いにおいても両国人民は相互に助け合ってきた。新中国成立において、インドネシアは最も早く新国家を承認してくれた」
「1955年のバンドン非同盟諸国会議を成功させ、平和共存を説くバンドン精神を発表して歴史に貢献した」
「1990年国交を回復し、両国の関係は発展を続けている。」
しかし、こうした歴史を語る中国側、これを聴くインドネシア側双方のいずれもが、心の中に思い浮かべながら、どちらもが触れたがらない現代史がある。「アジアを変えたクーデター」と呼ばれる1965年の「9月30日事件」と、その結果生じた1967年から1990年までの国交断絶期間である。
「9月30日事件」とは何か。事件発生からすでに半世紀近い時が流れているが、未だにその真相には謎の部分が多い。
1965年9月30日、スカルノ大統領親衛隊ウントゥン中佐率いる部隊が参謀長ら陸軍将官を拉致・殺害したが、一日でスハルト戦略予備軍司令官によって鎮圧された。事件は、スカルノ大統領、中国と関係深いインドネシア共産党、陸軍の三つどもえの権力闘争が続いていた時期に発生したが、その原因については諸説があって、今も9月30日が近づくと、インドネシアのメディアは「歴史を掘り起こす」特集を組んで、国民の関心を喚起する。
動かしがたい歴史事実として、この事件を契機に、スカルノ大統領は失脚、インドネシア共産党幹部は一斉検挙、粛清され、共産党の解体と続き、インドネシアは中国との国交を断った。そしてウントゥン決起軍を粉砕したスハルトは権力を掌握し、1968年に二代目大統領に就任する。こうした権力構造の変動過程において、共産党員やそのシンパ、華人系インドネシア人に対する甚大な人権侵害が発生し、数十万人ともいわれる大量虐殺が発生した。この虐殺には軍のみならず、イスラム組織も加担したといわれる。以来、スハルト政権は公共空間での中国語教育や中華文化の露出を禁止した。中華文化禁圧政策が廃止されるのは、21世紀に入ってからである。
中国とインドネシア国民の友好を寿ぐ国会演説において、習主席がこのような血なまぐさい過去を語らなかったからといっても、それは外交常識を逸脱するものではなく、「歴史の歪曲」と批判するにはあたらない。であるにしても、「9月30日事件」とその後の現代史は、インドネシアと中国の交流に突き刺さる棘となっている。それゆえに積極的な交流策が採られたといえ、一挙に中国への傾斜が起きることは考えにくいのだ。(写真:毎年「930事件」特集を組む「テンポ」誌)