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台湾の実業家、故張栄発氏と長年親交を重ねてきた池本好伸会員はこのほど産経新聞のインタビューに応じ、6年目を迎えた東日本大震災の被災地に巨額の私財を寄付した張栄発氏に関する思い出話を語った。
日本の台湾統治時代に生まれた張氏は航空事業や海運業などを率いる台湾財閥の総帥で、昨年(2016年)死去したが、数々の事業拡大・成功には日本の存在が大きかったとして終生日本に対して強い愛着を持つ親日派として知られていた。東日本大震災の時には、テレビで惨状を知り、即座に義援金の提供や最大限の支援を決めたという。
産経新聞電子版のインタビュー記事(3月11日)は以下の通り。
2017年3月11日 産経新聞電子版(PDF)
東日本大震災後の被災地の映像を目にし、涙した台湾人がいた。エバーグリーングループ総裁の張栄発氏(享年八八)。日本統治下の台湾に生まれ、一代で世界有数の海運会社を育てた実業家だ。縁深い仙台が被災し、直後に個人名義で10億円を寄付したことでも知られる。張氏は生涯、日本に思いを寄せ続けたが、昨年死去した際はメディアに大きく取り上げられることもなく、いま改めて偉功をしのぶ声が上がっている。
(外信部 塩原永久)
日本統治期の1927年、台湾北東部に生まれた張氏は、少年時代から海運会社で働く一方、夜間学校に通い苦学して航海士となり、船員生活を送った。会社を設立後、日本で購入した中古貨物船で海運業に乗り出したのは、30代前半のことだった。
68年、グループ前身の長栄(エバーグリーン)海運を立ち上げ、80年代に国際コンテナ船業務を柱に事業を急拡大。史上初の世界一周航路で名をはせた。89年にはエバー航空を設立して航空事業に参入し、ホテルや金融を抱える巨大グループに成長させた。
6年前の震災発生時は、経営の前線から身を引きつつあった時期に重なる。震災は張氏の目にどう映ったのか。巨大な津波が仙台市の海岸部や、東北の市街地を飲み込んでいくニュースは、台湾でも大々的に報じられていた。3月11日、エバー航空がすでに定期便を飛ばしていた仙台空港に大津波が押し寄せたのは、地震発生から約1時間後の午後4時前後だった。
時差で日本より一時間遅い台北にある総裁室で、張氏は、テレビで流れるニュース映像をみて涙を流していたという。
地震後すぐ、張氏はポケットマネーから、被災地への巨額の寄付を決め、日本赤十字社を通じて送った。また、海運や航空のグループ傘下企業に対し、毛布などの支援物資を運搬するよう指示。エバー航空の機材を使用して、各国政府や国際援助組織の物資まで、無償で日本に運んだ。
後日、深刻な被害が判明するにつれ「眠れないほど胸を痛めた」と述懐した張氏。被災地に惜しみない支援を即決したのは、とりわけ仙台の地が、張氏の心情に訴える場所だったからかも知れない。
事業拡大にいそしんでいた張氏が、日本各地の港湾に苦心しながら進出しようとした際、まず神戸港(兵庫県)が、そして仙台港(宮城県)が門戸を開いてくれたのだという。台湾の新興企業にとって参入は簡単ではなかったのだろう。生前に張氏と親交を深めた全日本空輸の元台北支店長、池本好伸氏(69)は「あのとき仙台が温かく迎えてくれたことに、張氏は恩義を感じていたようだ」と話す。
エバー航空が日本路線を増やしていく過程でも、張氏は仙台空港への就航に並々ならぬ意欲をみせていたと、池本氏は振り返る。
日本語で教育を受け、「日本人以上に日本人的だった」(池本氏)という張氏。その勤勉さや、徹底して物事を突き詰めようとするエピソードも伝わる。
張氏の関連品を集める張栄発文物館(桃園市)の図書館に保管されているのは、張氏が勉強に使った海事書などだが、几帳面(きちょうめん)なメモが書き込まれ、読み込まれて縁がボロボロになっているものばかり。全日空の支援を得ながら航空事業に参入するにあたっても、ありとあらゆる関連書籍を日本で買い込み、「徹底した勉強ぶりだった」(池本氏)。
海運業の拡大期には、大手商社の丸紅から資金面をはじめとする支援を受け、同社とは長期的に協力関係を持った。日本統治時代の台湾を知る世代にとって、日本との縁は生涯、ただならぬものだったに違いない。
「どんな人でも一生の間に多かれ少なかれ他人の授けを受けるものだ。(略)受けた恩は十倍にして返さなければならない」(張氏の口述自伝『本心・張栄発の本音と真心』から)
そんな思いが強かった張氏が、震災後の日本への支援を惜しまなかったのは、自然な気持ちだったのかもしれない。一方、自身が受けた恩義を社会に還元したいという思いから、85年に奨学金を提供する張栄発基金会を設立。慈善活動や教育支援に力を入れてきた。
もっとも、自分の功績や手柄をひけらかすようなことが嫌いだった張氏は、震災後の義援金についても、表だって話すことを好まなかった。
平成24(2012)年春の叙勲で、張氏は旭日重光章を受章した。関係者でお祝いの席を用意しようと持ちかけたが、張氏は固辞したという。また、自分の死後は「すべての遺産を寄付する」と明言していた。
昨年1月20日に死去すると、張氏による東日本大震災後の多大な日本への支援が改めて注目され、ネット上では「(張氏の)名前を知らない人もいるかもしれないが、感謝の気持ちを忘れるべきではない」などの声が寄せられた。
台湾と日本との深い縁を体現したような人生を送った張氏。カラオケの定番は千昌夫さん。日本の流行事情に最後まで関心を寄せ、後年、日本を訪れるたび、100円ショップでの買い物に何時間も費やすこともあった。
日本と航空路線の開設などをめぐって折衝をしてく中で、対中関係をことさら配慮する日本側の事情についても、張氏はよくよく理解していた。海運や航空事業で、世界的なビジネスを展開していた張氏にとって、逆にいえば、日本は「多くの商売相手の中のひとつ」という位置づけであったともいえる。
張氏が台湾と日本の関係について語った、こんな言葉が池本氏の記憶に残っている。「台湾は人口わずか2300万人。日本との関係なくしては、どうにもならない。だから日本にはもっともっと、しっかりしてもらい、台湾を引っ張っていってほしい」。
■張栄発(ちょう・えいはつ)■ 1927年10月、台湾北東部・蘇澳生まれ。父は郵便局員や船員だった。北部の基隆に移り、少年期から日系海運会社に勤務、夜間に商業高校に通う。複数の会社で一等航海士や船長を務め、61年、海運経営を始める。68年、長栄海運設立。コンテナ船事業に進出後、事業を拡大。89年に台湾初の民間航空会社エバー航空を立ち上げた。85年、慈善団体の財団法人張栄発基金会を設立。平成24(2012)年、旭日重光章。16年1月、死去。グループ傘下企業の売上高の合計は日本円で1兆円を優に超える規模で推移している。
(2017.3.11 07:00掲載分 産経新聞電子版より引用)