NPO法人 アジア情報フォーラム

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国際問題コラム「世界の鼓動」

個人の記憶と国の記憶:K・イシグロの場合

賛助会員 春海 二郎

(筆者は長年、在日イギリス大使館に勤務し、イギリス関係情報を独自に発信するサイト「むささびジャーナル」の運営をしている)

mj382-ishigurotop作家のカズオ・イシグロがノーベル文学賞を受賞したことで何やら大いに盛り上がっていましたよね。むささびはイシグロの作品は読んだことがない。あえて言えば映画『日の名残り』(Remains of the Day)に感激したことを記憶している程度です。ただ彼については、むささびジャーナルで2回(208号と374号)で取り上げています。

mj382-ishigurobenchここで紹介するのは、今から12年前の2005年10月5日付のドイツの雑誌、Spiegel(英文版)に掲載されたイシグロとのインタビューからの抜粋です。イシグロは1954年生まれだから、今年で63才。英国に渡ったのは1960年、彼が5才の時だっただから、このインタビューを受けた時は51才、英国に住み始めてから45年が経っている。インタビュー記事のタイトルは “I Remain Fascinated by Memory”(私は記憶に魅かれる)です。

「あのイングランド」への郷愁

SPIEGEL:英国の典型的な中流階級の町(Guildford, Surrey)で暮らした少年時代、除け者扱いされたのではありませんか?

mj382-guildfordイシグロ:全くそんなことはなかった(Far from it)。むしろ近所の人気者だった。教会のコーラスボーイだったし、近所の人のことは誰でも知っていた。英国人はその点面白い人たちですよね。ある程度までは、人種差別的であると言われたりするけれど、個人的には非常にオープンな人たちなのですよ。私が育った頃の英国はいわゆる「多文化社会」(multicultural place)になる以前の英国です。その意味では、消えてしまったあのイングランド、自分が子供時代を過ごした、あのイングランドに対して郷愁を感じますね。1960年代半ば以後の英国にはいろいろな国の人が移民してきたということもあって、(例えば)インド大陸から来た人たちに対する偏見が存在するようになった。自分が子供だった頃にはそれがなかった。
▼イシグロが幼少期を過ごした「イングランド」とは1960年代の英国です。イングランドがサッカー・ワールドカップで優勝し(1966年)、死刑が廃止され(1965年)、ビートルズの’Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band’が大ヒットし・・・第二次世界大戦の影響も薄くなり、新しい時代の到来に沸いていた英国です。欧州共同体への加盟申請がドゴールによって拒否されるということもあったけれど、総じて言えば楽しい時代だった。日本から見る英国はというと、学生だったむささびには「福祉国家」というイメージで、悪い印象ではないにしても、フランス、ソ連、中国、アメリカなどに比べると、かなり影の薄い存在だった。

運命を受け入れる

SPIEGEL:”Never Let Me Go”は読むだけで憂鬱になるような作品です。ここに出てくる若者たちは実に酷い状況におかれ、将来もひどい見通しです。なのに彼らは反抗することがない。これがあなたの考える人間が置かれた状況である・・・ということですか?

mj382-ishiguroremainsイシグロ:私の作品にはすべてそのテーマがある。ひどい状況に置かれているのに抵抗しようとしない・・・そのような人間の生き方ということだ。『日の名残り』に出てくる執事もそうだが、イングランドであれ、ナチのドイツであれ、自分がフィットする場所がないと感じている。そこで彼はどうするのか?そのような状況にある自分を受け入れながら、ほんのわずかなプライドや自尊心を保とうとする。そういう生き方だ。

“Never Let Me Go” について言うと、私が最初から書く気がなかった筋書きがある。それは、酷い状態に置かれて虐げられている階層の人びとがついに立ち上がって反抗する・・・そのような筋書きだ。私が追求しているテーマは「人間精神の勝利」(triumph of the human spirit)というようなものではない。どうにもならないほど残酷な運命をも受け入れる人間の能力(human capacity)、それに私は興味がある。
▼”Never Let Me Go”(邦題:わたしを離さないで)は、このインタビューが行われた2005年の時点におけるイシグロの最新作です。他人に臓器提供することだけを目的として作られたクローン人間の若者たちが集まって生活している特殊施設を舞台にするSF小説で、かなり陰鬱な内容らしい。

▼むささびは、”Never Let Me Go” という作品を読んだことはないけれど、彼の問題意識(人間に対する視線)には大いに共感するところがある。ひどい状況に置かれた人間がそれに抵抗することもなくそれを受け入れながらも「ほんのわずかなプライドや自尊心を保とうとする」という部分です。その人間なりのプライドのようなものに眼を向けるという姿勢です。むささびの理解する「英国らしさ」です。

「忘れること」と「進むこと」

SPIEGEL:あなたの作品のほとんどが、個人の人生の過去を振り返るというニュアンスのものです。ドイツでは、ナチズムという過去もあり、社会や国家レベルの記憶や忘却は1960年代以後ずっと大きな問題であり続けています。

イシグロ:ドイツではそれが非常に意識的に行われてきた。どの主要国よりも徹底してやってきて成功もしている。

SPIEGEL:特に日本と比べるとそのようです。Especially compared with the Japanese.

mj382-neverletmegoイシグロ:日本との比較はそのとおりだ。Compared with the Japanese, yes. しかしアメリカも奴隷制度という過去については困難が伴う。中には「そんなものは忘れて前進しよう」(bury that, move on)という人もいる。奴隷制度という過去にこだわることは、黒人にとってもいいことではないし、そんな過去をいつまでも持ち出すのは白人にとってもいいことではない・・・というわけだ。その一方で、そのような過去を振り返らない限り社会の進歩はない、という人もいる。このことは、ヨーロッパでナチに占領されたことのある国についても言える。フランスやスカンジナビア諸国だ。これらの国々で、「あのとき誰がナチに協力したのか?」などということを持ち出すことはいいことなのか?それともそんな過去は忘れて前進する(to move on)ことがいいことなのか?すべての国がその問題を抱えている。

SPIEGEL:ニーチェは「忘れることで自由になれる」(To forget makes you free)と言っています。

イシグロ:記憶や忘却は確かに大きなテーマだ。私は自分の作品を通して社会変化を遂げる国々のことを描く一方で、個人の記憶についても語ってきた。しかしその二つ(個人と国家・社会)を一つにして語るということは出来ていない。それこそが私にとっては大きな挑戦であると言える。
▼日本では、中国や韓国が日本の「過去」にいつまでもこだわっているとしてこれを快く思わない意見があります。そのような議論をする際に日本人が話題にしたがるのが「英国だって植民地主義の過去があるではないか」として「日本だけが責められるのは不当だ」という主張です。そのような主張をする人たちが忘れている(とむささびが思う)のは、英国人だって自分たちの過去について責められてあまり楽しくない経験をしているということです。それが最近になって表面化したのがBREXITなのではないかということです。また自分の属する国や社会の「過去」と自分自身の「過去」は関連付けて語ることができるのか?というイシグロの問題意識も面白いと思います。

生きたかもしれない別の人生

mj382-ishigurobenchbSpiegelとのインタビューとは関係ありませんが、ルイス・フラムクス(Lewis Burke Frumkes)というアメリカの作家との対談(2001年)の中で、イシグロは自分が5才で日本を離れ、以後は英国で育ったことについて語っている部分があります。日本を離れたことについて「サヨナラも言わずに去ってしまったような気分」として、日本にいたら別の人間(alternative person)になっていたのだろう・・・と言いながら次のように言葉を続けています。

自分が生きたかもしれない別の人生があった。しかし自分はこの人生を生きているのだ。
There was another life that I might have had, but I am having this one.

 

2017年10月16日 up date

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