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国際問題コラム「世界の鼓動」

ザトペック:長距離ランナーの悲哀

賛助会員 春海 二郎

(筆者は長年、在日イギリス大使館に勤務し、イギリス関係情報を独自に発信するサイト「むささびジャーナル」の運営をしている)

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むささびと同い年(昭和16年生まれ)か年上の皆さんであれば、「ザトペック」という名前を子供のころに聞いたことがありますよね。ヘルシンキ五輪のマラソンで金メダルを取った選手ですが、あれは1952年だったんですね。むささびはまだ小学生(11才)だったのですが、おそらくラジオから流れてくるニュースで聴いていたのでしょう。「苦しそうに顔をゆがめながら歯を食いしばって走る」ので有名だったのですが、その頃はテレビなどなかったから実際に走る姿は見たことがない。

そのザトペックについての伝記本が今年の4月に2冊出ており、10月6日付のLondon Review of Books (LRB) に書評が出ていました。何故いまザトペックなのかがよく分からないけれど、むささびには懐かしい名前なので、とりあえず書評だけでも読んでみようと思ったわけです。

父親は全く無理解

エミール・ザトペック(Emil Zatopek)は1922年、チェコスロバキア(現在のチェコ共和国)のコプリブニス(Kopvivnice)という町で生まれた。父親は自動車工場で働いていたのですが、自分の子供たちを革のベルトで打つのを常としており、ついに妻にそれを取り上げられた。エミールは14歳で別の町へ移り、製靴工場で働くようになる。そこで初めて徒競走に参加して好成績を収めたことで、自分が走り好きであることに気が付く。1944年、22才のときに2000メートル走でチェコ新記録を作ったのですが、父親は息子の走り好きには全く無理解で、「時間と靴の無駄」と考えていた。新記録を作った息子に手紙を送り「お前の身体では無理、ただちに走るのを止めて帰って来い」という手紙を送ってきた。もちろんエミールはこれを無視して走り続ける。

mj356-zatpek2エミール・ザトペックが世界的な注目を浴びるのは1948年のロンドン五輪です。5000メートルと1万メートルに出場、5000メートルは銀メダルに終わったのですが、1万メートルでは29分59秒6の五輪新記録で優勝した。

長距離3冠王に

ただ彼の名前が本当に有名になったのは1952年のヘルシンキ五輪です。エミールは29才、5000メートル、1万メートル、マラソンの3競技に出場、3冠王に輝きます。長距離走における3冠王は後にも先にもザトペックしかいない。それにしても64年後の2016年のリオ五輪における記録と比べると、今更のように時の流れを感じます。

  5000m 10000m マラソン
ヘルシンキ
(ザトペック)
14分06秒6 29分17秒 2時間23分03秒
リオ 13分03秒30 27分05秒17 2時間08分44秒

ザトペックはヘルシンキ大会の後、1956年のメルボルン大会ではマラソンで出場するのですが、2時間29分34秒の記録で第6位に終わり、これが最後の五輪出場となった。

mj356-praguespringヘルシンキで長距離3冠王に輝いたザトペックは、チェコスロバキアの国民的英雄となる。当時のチェコスロバキアは社会主義政権、ザトペック自身も共産主義の思想を信じていたけれど、1960年代には共産主義に疑問を持つ有名人が増えていく。それに伴ってエミール・ザトペックの政府への支持の気持ちも萎えていく。

プラハの春

1968年の「プラハの春」後にザトペックと妻のダーナは民主化を要求する「2000語宣言」に署名、8月20日にソ連軍がプラハに侵攻したときは、ザトペックも抗議デモに参加する。この間にある青年がソ連の侵攻に抗議して焼身自殺するという事件が起こったのですが、チェコスロバキア共産党がそれを「リベラル・グループにそそのかされた行為」と非難、ザトペックも非難の対象になっていた。

mj356-zatopekbook1「プラハの春」の挫折後、民主化運動への参加者たちの約30万人が「思想」を理由に職を失うなどして社会的に除け者扱いされるようになる。アスリートとしてのザトペックの実績はチェコの学校の教科書から削除され、ザトペックの名前を冠した体育館は名称を変えられたりした。ザトペックはボヘミア地方の産業廃棄物置き場で井戸を掘り、ミネラルウォーターを汲みだすという仕事にありつくけれど、生活は苦しく、ついに「プラハの春」運動への支持を撤回する声明を出さざるを得なくなる。

ソ連の秘密警察?

つまりスポーツ界を引退してからの生活は決して幸せなものではなかったわけですが、1989年、ソ連崩壊の直前にポーランドやチェコで起こった「ビロード革命」という民主化運動が盛り上がる中でザトペックはソ連の秘密警察の手先であると非難されたことがある。彼は本当にスパイだったのか?LRBの書評エッセイはその可能性は低いとしながらも、彼が民主化運動への支持を撤回するという「妥協」をしてしまったことは事実だとしている。ザトペックの場合、共産主義政権への支持も批判もよく知られた話だったわけで、仮に彼が本当にスパイだったとしたら、ずいぶんと下手くそなスパイ(pretty ineffective one)だったと言える。ただ彼自身の意図はともかく、民主化運動を弾圧する政権と妥協したことも事実だった。

チェコの歴史には、強大な権力にも妥協することなく戦ったヒーローが多く記録されている。ザトペックはそうではなかったということだ。
Czech history is littered with the charred remains of heroes who refused to compromise in the face of irresistible force. Zatopek wasn’t one of them.

ザトペックがチェコのプラハで数回にわたる発作後に心臓麻痺で亡くなったのは2000年11月22日、 78才だった。「我々、耐久ランナーたちは練習が好きなのだよ」(We endurance runners like to practise a lot)というのが彼の口癖であったそうですが、死に方まで耐久レースのようであったということです。

2016年10月18日 up date

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