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官民あげたインドネシア経済のアフリカ進出論であるが、こうした議論は夢物語ではなく、すでにインドネシア企業のなかには、アフリカでの「成功モデル」がある。
実はインドネシアは世界でも有数のインスタントラーメン消費大国である。世界ラーメン協会の統計によれば、2013年に世界中で年間総計1055億食が消費されている。第一位は断トツで中国の462億食であるが、インドネシアは149億食で二位に食いこんでいる。日本はだいぶ離れて55億食で三位。日本の倍以上のインスタントラーメンがインドネシアで食されている(写真)。
そしてアジア諸国や米、露、ブラジルといった大国に次いで第12位に顔を出すのがアフリカのナイジェリア、14.4億が食されている。人口1.5億人のアフリカ最大の人口国ナイジェリアの麺市場において71%の市場シェアを獲得しているのは、日本でも中国でもなく、インドネシア企業インドフード社のブランド「インドミー」なのだ。1995年にナイジェリアに進出したインドミーは、ナイジェリアでも最も売れている食品の一つで、国民のあいだに広く根付いている。インドミーは、ナイジェリアに自社工場を有するとともに、同国で250の店舗を展開し、今後さらに店舗開設のスピードを加速させるという。
第二、第三のインドミーのような成功事例を作るという強い意志をもって、企業家出身であるジョコウィ大統領が、アジア・アフリカの「南側」諸国に向かって経済外交の強化に乗り出した。そういう印象が強く残ったAA会議60周年記念首脳会議だった。
他方、経済や政治に比して、今回のAA会議60周年記念首脳会議においては文化の占める比重が軽かったような気がして、そこに一抹の寂しさを感じる。
ふりかえってみると1955年にバンドンで開催されたアジア・アフリカ会議(「バンドン会議」)では、社会・政治と並んで、文化についても文化協力委員会が設置され、敗戦国から国際社会に復帰したばかりで、どちらかといえば遠慮がちにこの会議に加わった日本も、文化分野では前向きな提案を行った。
宮城大蔵氏の労作『バンドン会議と日本のアジア復帰』(草思社、2001年)によれば、日本はユネスコ憲章に言及した上で、バンドン会議を契機として地域内の文化交流促進を呼びかけ、「アジア・アフリカ文化賞」の創設を提案した。この提案には各国から高い関心を呼び、これに気をよくした代表団は帰国後、以下のように報告書に記した(宮城、前掲書170頁)。
「アジア・アフリカ諸国において今なお、どうもすれば日本の経済進出に対して、疑惑を懐く向きもけっして少なくない折柄、わが国としては先ず文化協力を本地域に試みることが適当ではないかと思われる」
しかし、この日本の提案は、その後実現されることなく、日本とアジアとの文化交流の本格化は、1972年の国際交流基金創設や1977年の「福田ドクトリン」まで待たねばならなかった。日本とアフリカとの交流においては、今日ですら未だ本格化しているとはいえない。
ところで、AA会議60周年記念首脳会議が開催されていた同じ時期、日本映画大学の佐藤忠男学長と石坂健治教授が来訪し、同大学とジャカルタ芸術大学の姉妹提携協定を結んだ。今後、教員交流、学生交流、映画の共同制作など可能性が拡がる。
映画評論家の佐藤氏は1979年に山田洋次監督とともに国際交流基金の派遣でインドネシアを訪問し、そこでインドネシア映画の魅力を発見した。この発見が1982年の国際交流基金南アジア映画祭につながり、日本におけるアジア映画評価のきっかけとなった。以来、佐藤氏はトグゥ・カルヤ、スラメット・ラハルジョ、ガリン・ヌグロホ監督や女優クリスティン・ハキム氏らとの親交を深めてきた。今年84歳になる「サトウ・サン」がインドネシアに来ると聞いて、インドネシア映画界を代表する彼ら、錚々たる面々が故トグゥ・カルヤ邸に集まってくれて、佐藤学長、石坂氏との旧交を温めた(写真)。
敷地内にある旧友トグゥ・カルヤ監督の墓前で、深々と頭を下げて祈る佐藤氏の姿が心に残った。あらためて「アジア・アフリカが、アジア・アフリカを知る」、「政治、経済のみならず心と心の交流を図る」ことの重要性や、30年以上の月日を経てわかる人の出会いの意味について考えた感動的な夜だった。(了)