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国際問題コラム「世界の鼓動」

復興祈念神楽、ジャワの夜に舞う

「つながっている」という感覚

雨季特有のどしゃぶりの雨でまばらだった観客席も、雨があがり夕闇の深まりとともに、地域住民が次第に集まってきて賑やかになってきた。その数、ざっと200人ぐらいだろうか。鵜鳥神楽を支えてきた漁民たちの大漁旗の前で、ジャワの舞姫たちが古典舞踊を奉納することから公演は始まった。

鵜鳥神楽は、泥臭いまでに勇壮な「山の神」の舞や、ユーモラスな海の神「恵比寿舞」を得意演目とする。

山の神勇壮なお囃子とともに登場したのが「山の神」(写真)。腰に太刀を差した、赤い恐ろしい形相をした神様は、大地を踏みしめ、空高く跳びあがり、激しく舞い踊る。ダイナミックな力強い舞だが、神楽衆に聞いたところでは「山の神」は女性なのだそうだ。赤い形相はお産で息んでいるからで、安産の神さまでもあるという。漁民たちにとって、山は海上の航路の道標となるもので、自分たちの安全に直結する重要な存在だ。芸能の世界においても、山と海はつながっている。

そして鵜鳥神楽を代表する舞である「山の神」は、この神楽が山伏信仰に起因する山伏神楽に属するものであることを実感させる。岩手の早池峰山を霊場として修行していた山伏たちが広めた早池峰神楽は岩手の山伏神楽の代表格として知られるが、その原型をたどると南北朝時代にまで逆のぼるという。

さらに神楽衆が語るに「天の岩戸の前で、アメノウズメノミコトという女神が、御隠れになっている天照大神を引き出すために踊ったのが、日本最初の神楽」だそうだ。神楽の記憶は、夥しい神々が日本列島の自然のなかでいきいきと躍動していた、遠い、遠い太古の彼方にまで伸びていく。

こう語ると日本地生えの芸能と考えられがちな神楽だが、調べてみると、実はそのDNAの幾分かはアジア大陸とつながっているふしがある。謡曲、邦楽、神楽そして演歌など日本のうたい方の源流になったのは、今も延暦寺などに伝わる「声明」という説を読んだことがある。

「声明」の源流は古代インドにある。調子をつけて音楽的に発することによって言葉に呪力が加わるという信仰が古代インドにあった。これが仏教(密教)とともに中国に伝播し、さらに空海や円仁が中国で学んだ密教を日本に伝えた際一緒に、比叡山や高野山に持ち込まれた。

やがて「声明」は神聖なるものへの祈りを捧げる表現法として、僧侶や山伏たちによって日本列島全土に拡がったのである。

芸能史の専門家によれば「声明」渡来以前の上代の歌謡は、朗読に近いものだったらしい。このような歴史を考慮すると、日本の神楽は、そのDNAの何パーセントかを古代インド文明から受け継いだもの、ということになる。

ジャワ古典舞踊や影絵劇も、仏教、ヒンドゥー教などの古代文明がジャワ土着の文化と融合し、長い時間をかけて発酵するなかで成立した文化芸能である。

ならば古代インド文明という共通の祖先を通じて、日本の神楽とジャワ芸能は、遠い親戚・従兄のような関係にあるといえる。インドネシアの民俗芸能に触れた時に日本人が感じる「懐かしい」という感覚は、日本文化がアジアのなかで孤立した存在ではないということと関係しているからなのだろうか。

三上太夫それゆえになのか、インドネシアの観客にとって、鵜鳥神楽は異質な外国文化ではなく身近な存在と映るらしい。観客の芸術系大学の若い学生たちは目をいきいきさせながら、めまぐるしい舞に見入っていたし、太夫である三上岩富さんの小気味よい太鼓のリズムにつられて、舞台前で踊り出す少女もいた(写真 ばちを高く振り上げているのが三上太夫)。

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2015年3月27日 up date

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