NPO法人 アジア情報フォーラム

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国際問題コラム「世界の鼓動」

シリーズ・海外渡航と医療②

ロンドンでの医療体験(2)

五味 秀穂
(財)航空医学
研究センター所長

前回では英国医療、特にNHS(英国国民医療制度)の「懐の深さ」について述べた。今回はもう一つの同様の印象深い経験を報告したい。

ロンドン日本クラブ・クリニックは、St. John’s woodにある北診療所と、テニスで有名なWimbledonの南診療所の2箇所のクリニックで診療を行っている。北が主に内科(内科医2名)で、南が小児科(小児科医1名)の体制であるが、それぞれ医師が曜日を決めて南北交代し、診療にあたっている。この南北交代方式は、それぞれの地域の患者さんを分断しないようにするためで、私は1996年から1999年までの3年間この二か所の日本クラブ・クリニックで勤務したが、南診療所でのエピソードをお話しする。

内科である私が南診療所に行ったある日の夕方の診療終了の間際に、2歳くらいの男の子を連れたお母さんが来られた。母親は「最近この子はまっすぐ歩けない、壁を伝いながら歩く」という訴えであった。内科医の私が小児のこの症状をどう解釈するか・・・。なかなか悩ましい問題だったが、取り敢えず一般的診察を行った結果、特に異常が見られなかった。

英国ロンドン日本クラブ診療所

その時お母さんからふと「水を良く飲むのです」という話が飛び出した。それでは一応糖尿病の可能性も考えなくてはと判断し、念のために尿検査を行った。結果は尿糖が(1+)(ケトンは陰性)であった。やや専門的になるが、尿糖値はマイナスから1-4各プラスの段階に区分され、1+という数値はかなり微量で、このくらいなら食後には良くあることだ。ケトン体は糖尿病がかなり悪化した時に出てくる物質で、これも陰性なら、ほとんど心配はない。そこで、私は取りあえずポカリスエットの粉末袋を差し上げ、明日まで様子を見てもらい、翌朝電話をくれるよう話してお引き取り願った。

翌朝、気になってこちらから電話をすると、子どもは一晩で4〜5リットル水やポカリスエットを飲んだということであった。異常な量である。これには正直私は驚いた。ひょっとして糖尿病で重篤な状態かと疑い、すぐさま、ウインブルドンからロンドン市内まで少し時間がかかるが、血液検査のできる北クリニックにお出で頂いた。ちなみに、当時の南診療所は民家を改装し、クリニックとして利用していたため、血液検査の設備がなく外注しており、検査結果がでるまでに数日かかった。(現在は南診療所も地域の中規模病院内に移転しており、多様な検査は可能である)

血液検査の結果は、果たして私の悪い予想が当たってしまった。血糖値は300を超え、重篤なⅠ型糖尿病である可能性が極めて高いことを裏付ける数値であり、この数値にやや呆然となってしまった。それと同時に、このお子さんは「一生インスリンか・・」と胸が痛くなったのを覚えている。直ぐに近くの小児科医に連絡をして入院をお願いし、救急車で一緒に病院に向かった。そのNHSの病院も快く直ぐに入院させてくれ、検査等が始まり引き継ぎを行い 私の役目は一応これで終わったのだが、この子のことは気がかりで、心に重くのしかかったまま病院を離れた。

そんな私は彼の入院後2週間ほどしてお見舞いに伺ったが、全く予想もしないことが起こっていた。子どもはすでに退院したということだった。そのあまりに短い入院期間に唖然としてしまった。なぜこんな短期入院で済んだのか、すぐにはよく理解できなかったのだ。当時の日本ではこうした患者は各種検査の後、インスリン治療が必要な場合は、インスリンの量をまず決定し、打ち方の練習を行って習熟してもらい、担当医師・看護師からOKが出て退院となるのが通例で、早くても1か月はかかっていたものである。

では何故このように早く退院できたのか。ここに英国医療サービスが誇るきめ細やかな支援体制があったのである。それは多くの地域に介助・援護してくれる看護師さんの広範なバックアップ体制が整っており、毎日自宅に通ってインスリン治療のアシストをしてくれるからであった。日本にはない、密度の濃いこの支援ネットワークがだれでも利用できるようになっているからこその早期退院であったのである。

英国のNHSは一般的には悪名高く、例えば入院待ちの期間が一昔前は1年と言われた時期もあった。1997年の総選挙で勝利した、労働党のトニー・ブレア―は、「NHSの入院待ち期間を6ヶ月に減らす」という選挙公約を掲げたほど、その非効率は社会の大きな問題であった。また当時NHS病院の救急室では、治療の優先順位が重症度によって振り分けられ、命に別状のない骨折程度では救急室であっても半日以上待たされることなどよくあることであった。私の知人で、帰宅時に横断歩道を渡っていた時、信号無視のバイクにはねられて手首を骨折し、救急車でNHS病院に搬送されたが、翌日昼を過ぎても治療を受けられず、自分で民間病院に転院した経験の持ち主もいる。

しかし、その一方ではこのように各地域に地道な医療サービスネットが展開されていて、英国民のみならず、在留外国人の多くもその恩恵に浴していることは事実である。これも福祉国家英国の医療の底力と言っていいのだろう。

2014年8月7日 up date

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