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賛助会員 小川 忠
(筆者は国際交流基金のジャカルタ事務所長として独自に情報発信をしている)
「断食」という行いがなかったとしたら、人類の思想はもっと貧相なものだったのではないだろうか。人間が欲望のかたまりであることを、釈迦をはじめ偉大なる宗教の創始者たちは直視し、これを悲しみ、いかに脱却できるかを考え抜いた。その思索において、彼らは「断食」修行に積極的に取り組んだ。
人間の心のなかにある妄執を、自由意思に基づき食を断つという行為によって曝け出し、曝け出すことによって、これをコントロールし除去するという高度な精神的かつ肉体的鍛錬を、いつの時代から人類は行うようになったのだろう。ユダヤ教、キリスト教、仏教、ヒンドゥー教(バラモン教)等々、様々な宗教の聖典に断食に関する記述がある。
現代において、この「断食」行が最も大規模に営まれるのは、イスラム教である。毎年、世界中のイスラム教徒12~15億人が一斉にこの行に服する姿は壮観というしかなく、この世界宗教が内包する若々しいエネルギーを実感させられる。しかしくり返すが、「断食」はイスラム教だけの特別なものではない。日本人に身近な仏教や神道でも古代から盛んに行われてきた修行方法である。イスラムだけ異質視するにあたらない。
イスラム教徒にとって聖なる月、「ラマダーン」が始まった。世界最大のイスラム人口を抱える国インドネシアで暮らして、あらためてイスラム教とインドネシア社会の関係について考えさせられる月である。その中には、イスラム教に対する固定観念、先入観を覆されるような機会も少なくない。この国のイスラム教受容のあり様は、いかに多様で多面的なことか。このイスラムの多面性、多様性の背景には、1970年代以降世界的な規模で発生したイスラム復興現象が存在するように思われる。
1980年代末から90年代初頭にかけての最初の駐在時、インドネシアにおけるイスラム意識の再活性化をまのあたりにした。そして2011年、約20年ぶりにインドネシアに戻ってきて、この現象は現在も進行中であり、さらにそのベクトルは強まっていると感じている。
このベクトルの強まりは都市部の中間層、知識層、青年層において顕著で、1)イスラム教育の近代化と高学歴化、2)イスラムと西洋近代を折衷した新たな生活様式の出現、3)女性の社会進出と新しい女性像の模索、等の特徴がある。
今回は特に新しい生活様式を中心に、日本人にとって意外と思われるインドネシア・イスラムの多面性、多様性について紹介したい。