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古庄 幸一(理事)
ー山本長官没後70年ー
山本五十六聯合艦隊司令長官(以後山本さん)が1943年4月18日ブーゲンビル島上空で撃墜され、戦死して70年目を迎えた。
山本さんに関しては多くの話が残されているが、黒い革表紙の手帳の話しはあまり知られていない。かって軍艦「長門」の通信士として、艦橋で山本さんを間近に見ながら勤務していた先輩から次のような話を聞いた。「山本さんは黒い手帳をいつも持っていて、ときどき出してはページをめくり、瞑目して考え込んでいた。その手帳には何が書かれてあるかは誰も知らなかったが、戦死された時に遺品を整理していた、海軍兵学校同期で親友の堀悌吉さん(S9年海軍中将で予備役編入)が初めて見ることになる。そこには戦死した部下の階級、氏名、所属先、戦死日時、場所、そして本籍地や遺族の氏名等が細かなペン書きで書かれてあった」と。山本さんはこの手帳を開いては、戦死した部下の冥福を祈り遺族に思いを馳せていたのだろう。これ程までに部下を愛していた指揮官は他に知らない。
山本さんは海軍兵学校卒業直後に軍艦「日進」乗組となり、日本海海戦に参戦し左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重症を負う。その後第一次世界大戦、満州事変、支那事変そして太平洋戦争と生涯を戦の中で生きた海軍士官と言える。この体験を通じ指揮官として平時の訓練そして戦時に、部下を殉職や戦死させることの重さと責任を常に考えていた。その結果として指揮官のあり様が黒い手帳だったのだろう。筆者も現役時代、指揮官として部下の名前を覚える事さえ苦労したことを思うと情けない。
「やって見せ、説いて聞かせて、やらせてみ、讃めてやらねば、人は動かぬ」
これは山本さんが好んで使った言葉の一つとして、海上自衛隊にも語り継がれている。しかし山本さんが部下指揮官を讃めた話はあまり聞かない。この言葉をそのままに受け取るのではなく、この行間には叱る厳しさが在ることを知らねばならない。黒い手帳が残したように部下を愛した気持を思うと、「やらせてみ」と「讃めてやらねば」の間には本気での暖かい「叱り」が隠されていると思う。